積丹半島観光タクシー・ジャンボタクシー個人高橋 令和5年度ウニ漁期終了で今年最後の生雲丹丼です。

積丹のウニ漁

磯船を使って、口で箱メガネを支え、手でタモを足で舵をとるウニ漁は積丹の夏の風物詩、波穏やかな朝、5時頃から9時頃にかけて漁をしています。

汚れを知らない、積丹ブルーの透き通った海で育った雲丹は絶品で~す。

ウニ

数多いウニの中で食用になるのはバフンウニ、ムラサキウニ、アカウニなど。

食べて美味しいのは、冷たい水域に生息するエゾバフンウニ(地元ではガンゼと呼ぶ)で、名前に似合わず色も形も美しいウニです。

コンブを食用にしており、春から夏にかけて水揚げされます。

キタムラサキウニ(地元ではノナと呼ぶ)は暖流系で日本海沿岸に広く生息します。

とげが長く黒紫色をしており、食用となる卵巣部分はエゾバフンウニより大きく、色も黄色みがかかっています。

卵巣が成熟する春から夏にかけてが旬で、焼きウニ、ウニ和え、ウニ味噌、卵とじ、寿司ネタなど料理法も数多くありますが、生ウニを熱々のご飯の上にタップリと乗せノリを散らしてワサビ醤油で食べる「ウニ丼」が最高です。

トロリとした甘味と舌触りは磯の香りとともに、なんともいえない風味があります。

積丹郡積丹町大字入舸町に有る、積丹岬・日本の渚100選島武意海岸です。

透明度が高く「日本の渚百選」にも選ばれた神秘的な美しさをたたえる海岸で~す。透明度が高い海からは岩盤がのぞき、屏風岩のある入り江に波が寄せるさまをいつまでも見ていたくなりますねぇ~(^_^)v🚕🚖

積丹町の海の一部が道内唯一の海中公園に指定されておりますが、美しい島武意海岸は第二号の指定地で、その絶景を望むのに必見の場所です。

この島武意海岸は明治十八年(1885年)に齊藤彦三郎という人が「魚網」という魚網を発明して鰊漁場を経営していた所です。

明治二十八年にシマムイ漁場の斜面を登り、苦心惨憺の思いと私財をなげうって開削したのが延長三十mほどの「島武意海岸トンネル」です。それ以来、鰊をモッコに入れて背負いながら急な坂道を登り、トンネルを通行して此方から南側の干場に運びました。

元々、積丹岬の北に位置する島武意の浜は断崖絶壁の続く険しい海岸線、その浜から陸にニシンを運ぶ為には、どうしても岬のどてっ腹を繰り抜かなくてはなりませんでした。そんな必死の思いで作ったトンネルも、現在は観光客が島武意海岸の散策を楽しむ為に利用しています。

なお、当時の鰊番屋は今は無く、その跡までが荒れるに任せて既に遺跡化しています。

積丹町大字入舸町

入舸とはアイヌ語の「ニト・トマリ」「弁財澗・寄木の湾」の意味で、即ち、船の入る所から「入舸」と命名したようです。

明治39年村制が施行され、昭和31年町村合併によって積丹町大字入舸町になるまで、入舸村役場の所在地でした。(現在は町役場入舸支所)

積丹場所の漁場の一つであった入舸に、齊藤彦三郎という青森県人が入って漁業を営み、後にこの町で角網を産みだしました。

齊藤彦三郎の豪邸(鰊御殿)がこの町の港に面して建っておりましたが、惜しいことに取り壊されて今はありません。

弁天岩

積丹郡積丹町日司町に有る、弁天岩です。

日司町の海岸から見える岩は弁天岩です。

この漁村は古くから和人が定住し、松前藩の西蝦夷地開拓に伴う運上屋が在ったところで、沖に浮かぶこの島に海上の安全と豊漁を祈願して『弁財天』が祀られていましたが、現在は小さな鳥居がその名残を留めています。

また、かつてこの岩と陸の間の海上には朱塗りの鳥居も建っていました。

引き潮の時は徒歩でお参り出来、(女性はこの岩に上がる事は出来なかった。)時にはエゾ鹿が浅瀬で遊び、特に日が沈む頃には島影が茜色の空にくっきりと映え、より美しい情景を映し出し、明治の文豪「大町桂月」さえ絶賛し、『ああ、絶景なるかな北方の厳島』と賞嘆されたそうです。

今では漁港の整備で防波堤が築かれ、こちらの陸地と繋がっております。

大字・日司町

ここはかつては入舸村字日司でしたが、現在は町村合併で積丹町大字日司町です。

ここは昔、アイヌの人は「クッタラシ」(イタドリが群生する処)と呼んでいた所で、慶長年間、積丹場所として運上屋が置かれた事から「サクコタン」すなわち「積丹」と命名したのです。(積丹の地名の発祥の地)

安永5年(1776年)、場所請負人 岩田屋金蔵がこの日司に2ケ所の漁場を経営し、安永7年(1778年)には、ここから美国場所までの新道を開削したというのですから日司は古い歴史をもった漁村なのです。

日司漁港は第一種漁港に指定されており、昭和45年、新たに整備され沖合出漁の動力船が避難する事の出来る規模の港です。

日司「は御覧の通り、旅館、民宿、郷土料理の店など積丹半島では早くから施設づくりに力を注いで来たところです。観光シーズンともなりますと大型観光バスや乗用車などで大勢の観光客がつめかけ、「積丹銀座」の再来を見る様です。

漁師の味処・しゃこたんなべ佐藤食堂さんの『生雲丹丼は絶品』ですよ~

昔から変わらぬ器の大きさ!!ウニの量も多いですよ~

遠くには神威岬と神居岩が見えます。

神威岬

神威岬は積丹半島の北西端に位置する岬です。

古平町から神恵内村に向かう途中には、岬と名の付く場所は大小13ヶ所ありますが、その中でも神威岬は古くから蝦夷三嶮地の一つとして、更に海上交通の難所としても恐れられておりました。

安政2年12月まではこの岬から北は女人禁制でした。

江差追分の歌い文句に

     忍路高島及びもないが

          せめて歌棄 磯谷まで

と有りますが、神威岬より東海岸、即ち、こちら側には女性を乗せた船一切来てはならぬというお触れが元禄元(1688年)、松前藩から出されて以来この御禁制は厳しく守られておりました。

この裏には松前藩の財政となる蝦夷地で採れる産物の実態を、幕府に知られたくないという思いがあったようで、アイヌとの交易が藩の大きな収入源でしたので、他の和人が奥地に住み着いては困ります。

そこで婦女子が同行しなければ定住もしまいと考え、これを食い止めるためアイヌの伝説にかこつけて、「女を乗せた船はカムイの怒りに触れて転覆する」などと、此れを理由に「女人禁制」としたのだと言われております。

何はともあれこの禁制が解かれる時が来ました。

安政2年12月と言えば既に幕府直轄になっていた蝦夷地でしたので、箱館奉行は「妻子召し連れ引き移り候うこと勝手たるべし」というお達しを出しました。

そこで安政3年、箱館奉行支配調役・梨本弥五郎は宗谷に赴任する際、妻子を伴ってこの岬を超え様と試みました。

例え迷信と思いながらも岬に差し掛かった時、折しも波荒く「さては神の怒りか?」と恐れおののく船子たちや妻子を励ましました。

弥五郎はひるむ事無く勇気を出し岬に向かって「国主、今未開の地を開こうとしている。あなたは何の神か?この志を妨げない下さい。」と船上で何度も叫びながら、波の静まるのを待ちました。

やがて何事も無かったように波は治まり、無事岬を交わして宗谷に着く事が出来たそうです。

(一説にはこの時、弥五郎は神威岬に矢を放って海は静まったとも言われています。)

勿論それ以来、俄かに妻子を伴って岬の北に移住する者が増加し、積丹から石狩に至る海岸に和人の住む村が多く出来たと申します。

しかし、迷信と言えど何と明治時代に入ってからも、神威岬の魔人伝説を信じる者もいて、岬を越える婦女子は未だ少なかったと言われております。

※梨本弥五郎という方は武田斐三朗の妻の養父で、宗谷に赴く前に武田斐三郎と箱館の港に停泊中の英船を訪ね、船の「クワヘルヒ」(ストーブ)なる物を詳しく写生して来ました。

斐三郎は此れを見ながら設計し、何とストーブ本体だけでも二十三貫(約86㎏)という大きな物になりました。

弥五郎は稚内や天塩、斜里などの極寒の地で越冬する者の為に箱館の鍛冶屋に制作を依頼し、その見通しを着けて赴任の途に就いたといいます。

後に、箱館において製作したのが国産ストーブ第一号と言われていますが、しかし、宗谷では中々届かぬ箱館のストーブに業をにやし、現地のアイヌ人に造らせた鉄製のストーブ(重さ約53㎏)が実用に共した蝦夷地最初の物となったそうです。

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