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ぽっぽやロケ地とTVドラマ北の国から・富良野ラベンダーお花畑の旅です。
鉄道員ぽっぽやロケ地とTVドラマ北の国から・富良野美瑛ラベンダーお花畑の旅!個人タクシーグループフリープラン観光モデルコースです。
旭川空港~美瑛町四季彩の丘~ぽっぽやロケ地~TVドラマ北の国から麓郷~ファーム富田中富良野~札幌・小樽宿泊
幌舞駅・幾寅
南富良野町幾寅です。映画・鉄道員(ぽっぽや)の舞台となった幌舞駅(幾寅駅)です。
木材と畑作中心の町で、わずかに稲を作る農家もありますが、これも、飼料に使うワラをとるのが目的ということです。
幾寅の地名は、猛獣の虎に関係ありそうですが、実は虎ではなく、シカに関係があります。
アイヌ語の「ユク・トラシ」「鹿の登る所」からきたものです。
麓郷
連続TVドラマ「北の国から」のロケ地になって以来、訪れる人が多くなったところです。
このドラマは富良野に住むシナリオライター倉本聰さんが制作、昭和56年に放映されて好評を得て、再放送もされております。
きびしくも美しい十勝岳山麓の大自然を舞台に、故郷にUターンした田中邦衛ふんする黒板五郎一家が、悲しみと喜びを重ねながら、たくましく再出発する物語です。四季折々の自然の美しさは、富良野の魅力をあますところなく全国に伝えました。
麓郷には黒板一家の住んだ廃屋、「荒れはてた家」と、友人達の応援で建てた「丸太小屋」、「石の家」やテレビドラマの最終作「’02遺言」に登場した、五郎が雪子(竹下景子)のために、町で拾ってきたトラックの荷台や冷蔵庫などの廃材で作った「拾ってきた家」が保存されています。
また、滝里の国道沿いには中島明子ふんする螢がボーイフレンドとイニシャルを刻んだカエデの木もあります。
自然をこわさぬように「静かに訪れて、静かに戻ってもらえたらなら・・・・・。」
作者の倉本さんも言っておりますように、ソ―ッと訪ねて下さい。
ファーム富田
故富田忠雄氏のラベンダー畑です。昭和33年忠雄氏が結婚を記に念願だったラベンダー栽培を始める(10a)昭和40年7年を要しラベンダー畑を12haまで拡大する。
昭和45年富良野地方でラベンダー栽培がピークを迎え230ha250戸の農家が栽培、ラベンダーオイル生産量5トンとなる。
昭和47年合成香料や輸入香料の増加でラベンダーオイルの買い上げ価格が下がり採算がとれなくなりラベンダー作りを辞めて行く農家が急増します。
昭和47年~昭和48年富田氏も稲作で生計を立て、細々とラベンダー栽培をしていました。
昭和51年国鉄のカレンダーで全国に紹介され、次第に観光客訪れはじめ、徐々に富良野のラベンダー観光が増えて行きます。
昭和52年玄関先でラベンダーのポプリを販売。
昭和55年ラベンダーオイル抽出に成功る。
昭和59年化粧品製造業の免許取得。
昭和62年石鹸製造業の免許取得。
平成1年稲作を辞めラベンダーオイルやラベンダー製品の加工販売に専念する。
平成2年南フランスラベンダー生産組合よりラベンダー栽培の功労者に贈られる称号「オートプロバンスラベンダー修道騎士」授与されます。
四季彩の丘
春から秋に掛けて、約15haのお花畑に、ラベンダーをはじめとする色とりどりのお花が咲き乱れます。
美瑛の丘
美瑛の丘はもともと見せるためのものではなく、あくまでも生産活動の場所である事をご理解いただき、農業が成り立たなくてはこの景観を見る事が出来ないし、ここにこうして存在しないと言う事を観光で来られた方に認識していただきたいと、農業関係者の方は口を揃えて申しております。
というのも、丘の町で一躍有名になった農村にここ数年、100万人を超える観光客が訪れています。
ところが、中には心無い人もいて、畑に入り込み、農産物を踏みつけたり、それも車でというのもありますし、作物を引き抜いたり、ゴミを捨てたり、平気で作物の植えてある畑をトイレ替わりに使ったりと、それはそれは目に余る所業の数々、農家の方の怒りは頂点に達しております。
ここに来られる観光客の皆さんと農家の方の間には直接的な接点はありません。
私達は農家の方の生活の場所と、仕事場を脇から見せていただいているのです。
にも関わらず、訪れたお客様は客なのだから何をしても良いの態度をまき散らす方がいるというのですから、理解に苦しむ訳です。
望岳台・十勝岳
標高930m十勝岳の中腹位置し、十勝岳連峰が手の届く位置に迫り、180度の視界が開けて来ます。
空はあくまでも高く、噴煙を上げる十勝の山を背景に豊穣の大地・富良野盆地が眼下に展開し、晴れた日には遠く石狩周辺の山々を望むことが出来ます。
また、まじかに大雪山の主峰・旭岳が姿を現し、大雪山連峰、芦別岳を有する夕張山系が南西の方角に姿を見せて参ります。
この望岳台は大正15年5月の大噴火の際、大量に流れた泥流がアッと言う間に周辺の樹木や草花をなぎ倒し、白金温泉(当時はない)を超えて美瑛町の中心にあわやという距離(約25㎞)まで迫りました。
その時の泥流が山腹を埋め尽くし、その爪跡をそのまま今も残しているのが、この望岳台周辺なのです。