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『袋澗』です。【西積丹・神恵内村】
積丹半島観光貸切個人タクシー高橋の『袋澗』です。【西積丹・神恵内村】
袋澗
北海道日本海側では、大正後期までニシン漁で栄えたましたが、ここ積丹半島や寿都・島牧では、ニシンを陸揚げする土地が不足していたことから、ニシンを詰めた建網を海中に放置しなくてはならなかったのです。
また、この地域はニシン漁期中に時化ることが多かったため、放置した建網が流されることがしばし有りました。
そうなれば漁獲のために払われた労力が無駄になり、利益も減ることから、地元の網元たちはその事態を防ぐために、私財を投じて石垣の堤を建築し、その中にニシンを小袋に分けて一時的に貯蔵することにしました。
此れが袋澗です。
石垣はかなり堅牢に築かれていて、堤で囲まれた袋澗内には周囲が時化ても静穏を保ち、貯蔵に最適であった。また袋澗は、ニシンの小袋を保管する機能に加え、ニシン漁で使用する船舶の船溜まりや漁獲物の水揚げ場としての機能も兼ね備えるなど、網元たちのニシン漁業の根拠地として整備され、個人所有の「ミニ漁港」としての性格を帯びていました。
袋澗は寿都や島牧、函館、利尻、礼文島でも築造されていますが、多くは積丹半島、とりわけ神恵内村と泊村、積丹町の多く存在し、北海道全体では約300の袋澗があるといわれております。
多くがニシン漁業の最盛期だった明治後期から大正前期にかけて築設され、それが出来る網元はニシンの漁獲が多く資金力も備わっていたといわれています。
石垣は多くの袋澗が間知石練積構造を採用しているが、石枠型や堤のない切澗も見られ、種類は多いです。
神恵内村の概略
神恵内村は北緯43度09分、東経140度26分にあたり、日本海に突き出た積丹半島の西海岸に位置し、断崖と奇岩が織りなす海岸線が30数キロも続く海の郷で、村の総面積は約148平方kmあります。
積丹半島に連なる山々の尾根が日本海に突き出ていることから、平地はわずかで農業には適さず、91%が国有林や原野で占められており、漁業に支えられている村なのです。
かつてアイヌの人達は「カムイ・ナイ」「美しい神の沢」と言っていた地域で、ただ、カムイとは私達が神様と称するものではなく、この場所から言いますと、多分、カムイとは「熊」の事を指していると思います。
また、「地形が険しく人が近づき難い神秘なる沢」という意味もあるそうです。
現在の神恵内村はかつての古宇(フルウ)村で、古宇川が山奥深くより流れ出て、大地を潤しながら日本海に注いでおりますことから、「フルウ」と呼ばれていたようです。
フルウが歴史に登場したのは元禄13年(1700年)で、松前藩が幕府の命令により提出した「郷帖」に記されたのが最も古いと言われております。
その後、徐々に北上するニシンを追って人々も北へと移動し、この神恵内にも古宇場所が置かれました。
近江の商人達が場所請負人となって定着するようになりましたのが宝暦元年(1751年)の事で、これが神恵内の開発の第一歩といわれています。
請負人はイチゼンバシ恵比寿屋・岡田弥三右衛門に始まり、浜屋久七、福島屋・田村新助と続き、中でも田村家は弁財船を建造し、本州と蝦夷地の交易を始めた事から繁栄をきわめ、明治2年に制度が廃止されるまでの間、古宇場所を担っていたのです。
本州と蝦夷地を往来する弁財船は、当時の交易に欠く事の出来ない交通の手段でした。
ここ神恵内には弁財澗が今もなおその面影を留めておりますが、弁財澗とは、「弁財船の停泊地」の事で、伝説の岬・竜神岬の南側に位置しています。
神恵内のニシンの全盛期は明治21年から大正11年頃までと言われ、中でも大正3年には全道で最高の十万石を記録するなど、ニシン漁を中心に発展した村です。
しかし、積丹半島の他町村と同じように、昭和初期には凶漁となり、戦後の昭和26年、ニシン漁に幕が下ろされる事になりました。
こうしてニシンの群来に見放され、その魚の不漁が相次ぎ、現在はサケの稚魚の放流、稚ウニの育成、サクラマスの養殖など、獲る漁業から育てる漁業への変換を図り努力が重ねられております。
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