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JR標茶駅です。【標茶町】
北海道川上郡標茶町旭1丁目に有る、北海道旅客鉄道(JR北海道)釧網本線の駅です。
駅番号はB61。
電報略号はシチ。
冬期間はSL冬の湿原号が発着しております。
かつては標津線が分岐していましたが、現在は廃止されております。
単式ホーム・島式ホーム複合型2面3線の地上駅です。
ただし、3番乗り場は定期列車の発着が無く使用されておりません。
かつては副本線や貨物ホーム、多くのしておりました。
ホーム間の移動は跨線橋で連絡しております。
かつて2・3番乗り場から標津線中標津・根室標津方面の列車が発着しており、3番のりば(旧4番線)は標津線の本線として使用されておりました。
そのホーム上には、標津線の接続駅の証となっているSLの形をした木製のオブジェが現在も残っております。
SL冬の湿原号とは、北海道旅客鉄道(JR北海道)が釧網本線釧路駅~標茶駅~川湯温泉駅間の、沿線に釧路湿原を含む区間において冬季に運行している蒸気機関車(SL)牽引による臨時列車です。
2021年時点、北海道で運行されている唯一のSLです。
運航開始は2000年(平成12年)1月8日です。
標茶とはアイヌ語の『シ・ペッ・チャ』『大川の岸』という意味です。
この大川は釧路川をさし、川沿いにはいくつものコタンがあったようです。
この標茶に和人が入るようになったのは、安政年間(1854年~)からと言われていますが、本格的な開拓は明治10年以降のことです。
久寿里場所(釧路)の請負人佐野孫右衛門が、川湯の跡佐登(アトサヌプリ)硫黄山から、硫黄を運ぶための道路をつくり、さらに経営者は変わりましたが、明治20年に、北海道で4番目(明治13年手宮~札幌間、明治14年~江別間、明治15年~幌内間、これをまとめて見た場合は2番目)の鉄道が敷かれました。
そして、この間、明治18年には、その硫黄を掘り出すために釧路集治監がおかれ、長い間監獄の町として知られてまいりました。
現在は、人口より牛の数の方が多い酪農中心の町です。
西南の役(明治10年)やその後の自由民権運動によって出た多数の政治犯がその他の凶悪犯と共に、はるばるこれらの監獄に送られてきました。
ここ標茶につくられた釧路集治監も全国の監獄から、送られてきた刑期10年以上の者ばかりで、最も多かった明治23年には1409人が収容されておりました。
この釧路集治監における囚人達の主な仕事は、道路開削や川湯硫黄採掘・釧路川の改修などでしたが、特に硫黄の採掘は悲惨をきわめました。
当時、ここで採掘される硫黄は、質、量ともに世界一と折紙付きでありましたことから、明治19年、北海道庁はその鉱山を民間へ貸し渡し、標茶にあった釧路集治監の囚人を使って採掘・運搬に当たらせました。
アトサヌプリに外役所が設けられ、囚人はここから仕事に出ましたが、年産硫黄7万石を目標に、労働も過酷であったと申します。
また、囚人・看守ともに硫黄の粉と亜硫酸ガスによって目が冒され失明する人が続出、わずか半年の間に150人あまりが病気にかかり、42人が死亡したと記録されております。
その上、看守も囚人もお互いにイライラしていることから、誤解や衝突も多く『抵抗による斬殺』とか『転落による事故死』などと記録されたものが残っており、特に、北海道開拓が急がれた明治20年代には、道路開削、土木工事、採鉱、開墾などに囚人たちは家畜同様酷使されたのです。
こうした労働のさまを視察して驚いたキリスト教教戒原胤昭が『囚人といえども人格を尊重すべき』と時の刑務所長大井上輝前に進言、彼の決断によって3年で中止されました。
しかし、明治30年頃、釧路集治監で合同葬が行われかつての硫黄山外役所などから、このとき死亡した囚人の遺骨が集められたことがありますが、土の中から掘り起こされた300人の遺骨には、手錠をかけられたままの姿が何体もあったといわれております。
北海道は囚人と屯田兵によって拓かれたとさえいわれておりますが、開拓のために繰り広げられた囚人の強制労働は、北海道の各地に残酷物語として残っております。
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