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『新日本海フェリーらべんだあ』です。【小樽港での貸切観光タクシー】
『フェリーらべんだあ』です。【北海道観小樽港貸切観光タクシー・ジャンボタクシー】
小樽港勝納埠頭に2017年3月に就航した、新日本海フェリーらべんだあが入港していました。
「らべんだあ」主要目 全長:197.5m 幅:26.6m
総トン数:約14125t 主機関出力:11000kW×2
車両搭載能力:トラック150台 乗用車22台 旅客定員:600名
高効率推進システムの採用により、省エネ環境負荷低減を実現した最新エコシップです。
こくないのフェリーとしては初の垂直船首を有する省エネ船型、近接2軸推進システムとバルブ付リアクション型舵を組み合わせた省エネ推進システム、三菱空気潤滑システム(MALS)や各種省エネ機器を採用しており、従来船と比べ約10%省エネ効果を高める事が出来ます。
小樽市勝納埠頭、大きなサイロの建っているあたりは小樽勝納埠頭です。
日本海沿岸では最大のマンモス埠頭で、穀物サイロやコンテナヤード、トラックターミナル、フェリーターミナル(新潟、敦賀、舞鶴)などがならんでいます。
また小樽勝納埠頭の先には、中央埠頭、第一、第二、第三、色内埠頭とつづいています。
小樽港の新たな整備とフェリーの就航
天然の良港といわれた小樽港は第二次世界大戦後、樺太を失い、また当時のソ連や中国との貿易も政治的問題もあり貨物取扱量が減少しました。昭和11年(1936年)に411万8千tの取り扱い貨物量を記録した小樽港は、昭和25年(1950年)には196万tと半減します。
その後、昭和31年(1956年)には、昭和11年(1936年)の実績を上回りますが、エネルギーが石炭から石油に変わる中で小樽港の取扱貨物の7割以上を占めた石炭取扱量も減少します。
さらに、山が海岸に迫っていることから背後に工業団地を確保できず、工業開発と一体となった港湾整備と利用を望む事はできませんでした。
小樽港は新たな時代への対応が必要となりました。
昭和40年代に入ると船舶はさらに大型化しました。
そして、穀物、セメントなどと専用化し、コンテナ輸送も始まりました。
そこでそこで、昭和42年(1967年)には大型化する外航船に対応して、2万t級の船舶が接岸できる中央埠頭の工事が始まります。
幅260m、手宮側400m勝納側538mの大型埠頭には収容能力3万tの穀物サイロやセメントサイロ、冷凍・冷蔵倉庫などが建設され、昭和47年(1972年)に完成しました。
さらに、遊休地となった石炭積出し施設のあった若竹、勝納地区に面積48万平方キロメートルの巨大埠頭の建設が計画されます。
昭和48年(1973年)から工事が始まり、およそ112億円と10年の歳月をかけて昭和57年(1982年)に完成します。3万t級の船舶が接岸できるバースを持った埠頭は当時東京以北では小樽港だけでした。
現在勝納埠頭にはフェリー岸壁やターミナルが整備され、4万9千tの収容の力を持つ穀物サイロや輸入原木用地、小樽港マリーナが設けられています。
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小樽市のあらまし 明治のはじめ、札幌が北海道の中心に決まりますと、天然の良港だった小樽は、札幌への物資の陸揚げ港となり、やがて、石炭をはじめとする、北海道の物産の積出港となりました。このため、明治13年には、小樽の手宮と札幌の間に、日本で3番目の鉄道が敷かれ、本州からの開拓移民も、いったん小樽に上陸し、ここから奥地へと向かったものでした。
また、明治38年南樺太が、日本の領土となってからは、玄関口となった小樽は、樺太航路が出来、さらに第一次世界大戦の頃には欧米航路も開かれ、港は何時も船で埋まっておりました。銀行街が北海道のウォール街と呼ばれ、小樽の雑穀相場が、ヨーロッパの市場をゆるがすほど栄えました。
敗戦で樺太を失って対岸貿易が減ったため、発展のテンポは鈍りましたが、現在は昔ながらのたたずまいを残す港町として、再び注目を集めるようになりました。
小樽は坂の多い街で、家並みのあちこちから、青い海が顔をのぞかせています。町を歩くと、明治・大正の頃を偲ばせる、運河や石造りの建物にぶつかりますが、それら古いたたずまいの、運河や石倉庫などは、綺麗に整備され、レトロな街並みをつくっています。
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