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函館周辺 TAXI観光 フリーPlanTour couresです。
函館周辺 TAXI観光 フリーPlanTour couresです。【函館SightseeingTaxi髙橋】
函館山からの風景です。
函館山は、標高355mの御殿山を中心に、薬師、観音、愛宕、七面、地蔵、鞍掛と、7つの山からなっている自然公園で、この山を遠くからながめますと、ちょうど牛が臥せているように見えるところから、臥牛山とも呼ばれております。
函館山は明治32年から終戦までの、およそ50年間、軍の要塞に使われていたところです。
そのため、長い間一般の人々の立ち入りは禁止されていましたが、今では、観光都市函館のシンボルとして、また、市民の行楽地として生まれ変わっています。
雄大なながめが開けていますが、市街地を挟んで右が津軽海峡、左は函館港です。
函館港はその形が巴のようになっていますので、巴港とも呼ばれています。
今から140年ほど前の安政2年(1855年)、伊豆の下田と並んで、外国船に薪や水・食料を補給する港として、さらに、安政6年には、長崎・横浜とともに貿易港として開かれた港です。
きじひき高原パノラマ展望台からの風景です。
五稜郭公園です。
五稜郭公園は幕末の蘭学者として知られる武田斐三郎が、オランダの書物から学んで設計した、日本初の洋式のお城です。(他にも長野県竜岡城)
長い間、鎖国を続けていた徳川幕府は、たび重なる外国からの圧力に負けて、安政元年(1854年)神奈川条約(日米和親条約)をむすび、これまでの長崎に加えて、伊豆の下田と函館に、外国船の出入りを認めるようになりました。
そして、この蝦夷地も、徳川幕府が松目藩にかわって、直接おさめるようになり、箱館奉行を置き、五稜郭を築いて警備にあたりました。
五稜郭の工事を始めたのが安政4年(1857年)、完成したのが7年後の元治元年(1857年)です。
しかし、幕府のお城として役目をはたしたのは、わずか5年ほどだけで、まもなく明治維新を迎え、箱館戦争が起こると、榎本武揚率いる旧幕府軍によって占領されてしまったのです。
皮肉にも、外国との戦いではなく、日本人同士の戦いの舞台となってしまいました。
五稜郭という名前は、周囲の石垣が、星のような形になっているところから付けられたもので、当時、敷地の中には、木造平屋建ての箱館奉行所を中心に、土蔵や弾薬庫など、たくさんの建物が建ち並んでいたそうです。
現在は、国の特別史跡に指定されています。
公園内には市立博物館の分館があって、たくさんの史料が展示されており、およそ3000本の桜の木が植えられ、お花見時には、たくさんの人達で賑わいます。
また、夏には市民の創作による函館野外劇が上演される舞台ともなっています。
大沼観光船と駒ケ岳です。
大沼国定公園
面積がおよそ9100ha、駒ケ岳とその影を映す大沼・小沼・じゅんさい沼を中心とした、北海道では珍しく、女性的な雰囲気を持つ景勝地です。
湖に浮かぶ大小126の島々と、30余りの入り江、そしてブナ・ナラ・イタヤなどの広葉樹や、エゾマツ・トドマツなどの針葉樹にかこまれた湖畔など、変化に富んだ景観が見られ、九州の耶馬渓、静岡の三保の松原とともに、新日本三景の1つにも選ばれております。
駒ケ岳
駒ケ岳は、標高1131mの活火山で、山全体が溶岩におおわれ、剣ヶ峰、砂原岳、隅田盛の3つの峰と、馬の背と呼ぶ稜線によって、形づくられています。
むかしは、富士山のような、美しいいコニーデ型をしていたのですが、大きな噴火が何度も繰り返されて、現在のような姿になったと考えられております。
記録に残る大爆発は3回(官営17年・1640年、安政3年・1856年、昭和4年・1929年)ですが、中でも、今から360年程前にあたる、寛政17年の爆発では、山頂の一部が吹き飛ばされ、津波も起きて700人余りの命が奪われました。この時降った火山灰は、2mも積もり、遠く新潟にまでおよんだそうです。
もっとも新しい昭和4年6月の爆発では、吹き出した大量の軽石が、駒ケ岳の南東、ちょうどこちら側に当たりますが、この付近を埋め尽くし、村はほとんど全滅という打撃をうけました。
今もなお、噴煙を上げて続けていますが、登山は許されていて、2時間~3時間で山頂に立つことができます。
なお、この山は見る位置によってその姿を変えますが、只今御覧いただいておりますのは、左から隅田盛、剣ヶ峰、馬の背、右手は砂原岳です。
大沼公園に有る、千の風になってのプレートです。
トラピスチヌ修道院です。
トラピスチヌとは女子のことで、男子の修道院はトラピストです。函館トラピスチヌ修道院は明治31年、ローマカトリック・シトー会の、8人のフランス人修道女によって創設された、日本初の女子修道院で、正しくは、「天使の聖母トラピスチヌ修道院」といいます。
このシトー会という組織は、宗教活動をするためのものではなく、【生活のすべてを神に捧げ、祈りと労働の日々を過ごすことで神と人々に奉仕する】ことを目的にしています。ですから、その戒律も厳しく、貞潔(操が固く、行いが潔白)清貧(行いが清らかで、貧しい生活にも満足)従順(素直)の3つの誓い(3誓願)のもとに、修道女たちが信仰生活をしています。
毎日3時半起床、お祈り、読書、ミサのあと食事、8時過ぎから労働を始めます。50haの敷地では畑作、牧畜などの作業を行い、バター飴、クッキー作りに精を出しております。また、冬はペンダントや手芸品などを作ります。夜、床に就くのは19時45分、これが修道女たちの静かで落ち着いた日課です。この修道院には、誰でも入れるわけではありません。
カトリック信者であることはもちろん、洗礼を受けてから、3年以上たった未婚の女性、年齢は普通23歳~30歳位まで、両親の承諾と教会の推薦があることなどが、条件になっています。いずれにしましても、修道女になるには、人柄はもとより、正しい心と強い意志が必要で、ただ単に失恋したからとか、生活に疲れたからという理由だけでは、生涯をここで暮らすことは出来ません。
(静かなる 青き 一日の 暮れゆきて 聞くはよろしき アンジェラスの鐘)と歌人の与謝野晶子はうたっております。なお、ここで自給自足できるもの以外、生計はすべて修道女たちが作る、お菓子や手芸品などの収入でまかなわれています。
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