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旭川『旭橋』です。【北海道三大名橋】
旭川市貸切観光タクシー・ジャンボタクシー高橋の旭川『旭橋』観光案内です。【北海道三大名橋】
北海道旭川市3条通6丁目に有る、旭橋です。
アーチ型の橋は、石狩川にかけられた旭橋です。
昭和7年にかけかえられたものですが、戦前は、旭川にあった第七師団の人たちの靴音が絶えなかったといいます。
また、この橋の勇壮なすがたは、雄大な大雪山連峰とよく調和して、北海道の名橋の1つにかぞえられています。
(石狩川は、ここで牛朱別川と合流し、この少し下流で忠別川、美瑛川の水をあわせ、神居古潭を通って石狩平野に流れ出ております。)
旭川の四季
旭川といえば、冬の寒さで有名なところで、古いお話になりますが、明治35年には、マイナス41度まで下がった事も有ります。
最近はこのように厳しい寒さは有りませんが、それでも1月から2月にかけてはマイナス10度以下の日が続いたり、時にはマイナス20度以下に下がる事も有りますから、本当に寒さの厳しいところです。
天気予報などで、よく真冬日という言葉が使われますが、此れは1日中、気温が0度未満の日のことをいい、旭川では、平均して年間80日以上にもなります。まさしく冷凍庫の中の数カ月です。空気はピンと張りつめ、吐く息は白く、樹々の枝には真白な氷の花が咲きます。
こんな朝は「今朝はずいぶんシバレルね」という挨拶が交わされますが、寒いとか冷たいとか言う言葉では間に合わず、シバレルでなければ実感がともなわないのです。
でも、この寒さの冬を、スキー・スケート、そして冬祭りなど、人々は大いに楽しんでいます。雪は4月迄残りますが、もう、その頃にはコブシの花が咲き、5月には桜もその美しさを競い、近郊の公園は花見の人々で賑わいます。
しかし、北国の春はあっという間に過ぎ、ビールの一番美味しい夏がやってまいります。7・8月の気温は30度を超える事も有りますので、涼しさを求めて来られた本州のお客様はびっくりします。
やがて夏も終わりを告げ、空も青く澄み渡る9月、近郊の田んぼでは稲穂が段々頭をたれ、秋を感じます。そして10月、、街路樹のナナカマドの色づきも鮮やかになったころ、大雪の山々は早くも雪のヴェールにつつまれ、人々は冬の支度に忙しくなります。そしていよいよ冬将軍の到来です。
旭川は石狩川をはじめ美瑛川、忠別川、牛朱別川など、129の川が集まり、川の街といわれています。
そのため橋のかずは、大小あわせて700あまりもあるそうです。
なかには、60年を迎えた名橋、旭橋や、ツインハーブ橋などがあり、ライトアップされて美しく、ノスタルジックな夜景を演出しています。
石狩川は、長さ268㎞、北海道の屋根大雪山連峰から流れ出し、途中、空知川や夕張川など、いくつもの支流を合わせながら、石狩平野を悠々と流れ、日本海にそそいでいます。
流域面積も広く北海道の約17%(14330平方km)を占め、札幌、旭川など、48の市町村にまたがっています。
石狩川は、流域をうるおし、人々の暮らしに深いかかわりを持つことから「母なる川」と呼ばれています。
しかし、石狩川は肥えた大地をもたらすだけではありませんでした。
アイヌの人たちが「イ・シカリ・ぺツ」曲がりくねった川、と呼んだように、曲がりくねった流れは増水すると手がつけれないほど氾濫して、別名「暴れ川」とも呼ばれ、流域の農民を泣かせました。
明治43年から、川の流れを変えたり(ショートカット工事のため、川の長さは100㎞ほど短くなった)護岸工事をしたり、上流にダムをつくるなど、河川工事が行われました。
今では洪水もほとんどなくなって、むしろ、三日月湖やダム湖などの観光が楽しめるようになりました。
また、石狩川は、むかしからサケののぼる川として知られていますが、一時、さまざまな工事のためにサケの姿が少なくなったこともありましたが、最近では昔通りに、サケがのぼってきています。
北海道の開拓に忘れることの出来ない人たち、屯田兵について少しお話しいたします。
屯田兵は、明治7年のに設けられた制度です。
その目的は、明治維新によって職をうしなった武士たちに、南下するロシアの警備と、北海道の開拓という2つの任務をあたえたものでした。
屯田兵は国の制度でしたから、支度料、旅費、住宅、日用品、農具などが支給されましたが、家族ともども、遠い未開の地に移り住むためには、たいへんな決心が必要でした。
住まいといえば、板がこいに障子窓、今でいう2LDKくらい(マサぶき屋根、4.5畳と6~8畳の和室、炉のついた板間、押し入れ、土間、便所)の規格住宅です。
本州と同じ様なつくりで、しかも簡易に建てられていますから、北国の寒さはひとしお身にしみたことでしょう・・・。
それに当然のことながら、すべてが軍隊式でしたから、夏は朝4時の起床ラッパでおこされ、6時に作業開始、昼食1時間休憩で夕方6時までの11時間(冬は9時間で、おもに訓練)、家族ぐるみで開墾しました。
カタナにかえてクワを振るい、原始林に入って大木を倒し、根を掘っては、荒れ地を開いて田畑を作ったのですから、よほどの忍耐と強い意志がなければ出来るものではありません。
手にはマメが出来、顔は真っ黒に日焼けして入植当時の姿はどこえやら、歯をくいしばって、あたえられたノルマをはたして行ったのです。
集団入植なので、一般の開拓者が味わう孤独感はあまりなかったといいますが、出身地がまちまちなため、風俗習慣や言葉が違って、トラブルも多かったといいます。
しかし、北海道の開拓はこの屯田兵制度で大きく前進し、道路はもちろん、学校、病院、商店ができ、治安に守られた村が、あちこちにふえました。
明治8年、札幌の琴似にはじめて198戸の屯田兵が入植してから、(明治23年からは一般からも募集)37年にこの制度が廃止されるまで、作られた兵村は37ヵ所、入植戸数7337戸(家族をあわせて約4万人)面積は7万4000haにおよびます。
屯田兵育ての親、永山武四郎は薩摩(今の鹿児島の一部)の出身で、明治維新のときに、官軍が会津若松を攻めたとき、これに従って名声をあげました。
永山武四郎は、はやくから、北海道の守りを強くしなければいけないと主張していました。
それは明治のはじめ、ロシアの南下が日増しに強まり、南樺太も奪われそうな状況にあったからです。
しかしそのころ、北海道には、函館にわずかな守備兵がいるだけでした。
武四郎は、北の守りと開拓は、自分の使命であると信じ、政府も、武四郎の熱意を知って、明治5年、北海道開拓使八等出仕として、札幌に赴任させました。
当時の開拓使長官、黒田清隆もまた同じ意見で、屯田兵制度をつくることを政府に進言して、明治7年(1874年)ついに実施されることになりました。
その彼が、明治10年、たいへんな苦境においこまれました。
それは、故郷の大先輩で、もっとも尊敬していた西郷隆盛が西南の役をおこし、これを討てとの命令が武四郎にも下ったからです。
武四郎は涙をふりはらい、できてまもない屯田兵をつれ、九州へわたりました。
そして、おおいに奮戦して、百姓部隊とバカにされていた屯田兵の名を、一躍全国にとどろかせたのです。
その後、屯田兵の仕事も、警備よりも開拓に向けるべきと考え、今まで、武士にかぎっていた屯田兵を、一般からも募集することにしました。
この平民屯田のはじめが明治24年、旭川市永山に入った永山屯田です。
以前から旭川を、北海防衛の一大拠点にしようと考えていた彼は、無人の原野に400戸の家を建てました。
人が住むようになると、職人や労務者、商人もはいりこみ、しだいにマチができて行きました。
今、武四郎の名をとって呼ばれる永山は、上川稲作地帯の中心となっております。
武四郎は屯田司令官、そして、第2代北海道庁長官をつとめのち、旭川にあった第七師団長を最後に退職しておりますが、30年間に37の兵村を育てております。
戸数にして7300戸、4万人あまりの人々が耐え忍んで、北海道開拓のいしずえとなったのです。
明治37年、療養先の東京で亡くなりましたが、「自分は常日ごろ、屯田兵たちに、お前たちは北海道の土になれ、わしも北海道の土になる、といっていた。だからどうしても北海道で死ぬ。」といっていた故人の意志によって、遺骨は札幌に葬られております。
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