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安田侃彫刻美術館『アルテピアッツァ美唄』です。【美唄市】
北海道観光貸切個人タクシー高橋の美唄市・安田侃彫刻美術館『アルテピアッツァ美唄』観光案内です。
安田侃彫刻美術館・アルテピアッツァ美唄
美唄市落合町栄町に有る、安田侃彫刻美術館アルテピアッツァ美唄はかつて日本有数の炭鉱都市だった北海道美唄市の山間にあります。
屋内外には地元出身の国際的に知られるイタリア在住の彫刻家、安田侃氏の大理石やブロンズの作品40点余りが展示されています。
炭鉱住宅街跡に再生された木々茂る山々や清流に囲まれた空間では、四季の移り変わりを満喫できます。
木造二階建ての旧小学校校舎は数十年前の標準的建築様式で、地域の人々のみならず訪問者の郷愁を誘います。
現在は、当時の面影を残したままギャラリーとして再生しています。
元体育館や丘のふもとにある大理石のステージはコンサートや舞踏、公園会場ともなり、ギャラリーでは様々な展覧会が開かれます。
イタリア語で芸術広場を意味するアルテピアッツァ。
そこでは現代彫刻が自然と深く調和し、人々を魅了します。
アルテピアッツァ美唄は自然、人、芸術の新しいあり方を提示してきました。
アートスペース(旧体育館)「めざめ」
安田侃彫刻美術館アルテピアッツァ美唄は、自然と彫刻が調和する美しい空間です。
アートを通じて、地域の人、人と人、そして過去と今、未来を結ぶ場として、美唄のまちに新たな「時」を積み重ねてきました。
このかけがえのない空間を、揺るぎなく次代に伝えていく上で大切な役割を担っているのが「あるて市民ポポロ」の皆さんです。
この場所の未来を見つめ、歩みを共にする「アルテ市民ポポロ」。
その環が、アルテ市民として「在る」ことの喜びを心に積み重ねていくことの出来るものでありたいと念じています。
「バトンを未来へ」
アルテピアッツァ(芸術広場)が未来にわたって「こころのふるさと」であり続けるために、「アルテ市民ポポロ」にご参加くださることを心から願っています。
炭山の記憶
美唄はかつて炭鉱の町として賑わい、炭鉱夫やその家族を含む約10万人もの人が生活していました。
炭鉱は「そのヤマで暮らす人全てが家族」を意味する「一山一家」という言葉があるほど、人と人が強い絆で結ばれていました。
危険な炭鉱で毎日命を懸けて働き、お祭りではヤマをあげて楽しみました。
やがて炭鉱は閉山になり、多くの人が仕事を求めて美唄の地を離れました。
しかし、今でも故郷・美唄の炭鉱町で過ごした日々に思いを寄せる多くの方が、遠い場所から記憶や思いをもって帰って来られます。
安田侃彫刻美術館アルテピアッツァ美唄の中にある木造校舎、体育館はかつて炭鉱夫などの子供が過ごした学び舎です。
炭鉱町で過ごした人の故郷として、その記憶や思いを次の世代へ語る場所として、美唄の歴史を繋いでいきます。
美唄市
アイヌ語の「ピパオイ」から来たもので「カラス貝」の多いところの意味です。
そのため、むかしは、沼貝村と呼んでいたのですが、大正15年に「美しい唄」と書く美唄に改めております。
本格的な開拓は、明治24年から明治27年にかけて入植した屯田兵によるものです。
屯田兵が開拓したところは北海道でも37ヵ所ありますが、ここはただ1ヵ所の特科部隊として、砲兵、騎兵、工兵の400戸が入植して、開墾と訓練に汗を流したところです。
特科部隊ですから、ほかの屯田兵とはちょっと違って、騎兵隊には1軒ごとに、砲兵隊には5軒ごとに、それぞれ1頭の馬があたえられていました。
現在、そのころの厩舎つき住宅(騎兵隊用兵屋)は、北海道有形文化財として保存されています。
また、美唄は大正から昭和にかけて、炭鉱の町として栄えたところで、昭和25年には、人口8万7千人を数えましたが、エネルギー革命の波は、ここ美唄も例外なく押し寄せ、昭和48年をもって炭鉱は姿を消してしまい、現在では農業と工業が中心になっております。
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