小樽観光タクシー・JR 小樽駅観光案内です。

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小樽駅

現小樽駅は北海道鉄道株式会社により明治36年(1903年)6月28日、開業しました。

「小樽中央駅」が当初の名称で、翌明治37年に「高島駅」と改称されました。

駅の屋内天井に大きな六角灯篭がつり下げられ、「たかしま」と記されていました。

高島駅の名前は、鉄道計画時、駅所在地周辺の現稲穂1丁目~5丁目が高島郡だったのが由来です。

その後「稲穂駅」と呼ばれたこともありましたが、明治38年、現南小樽駅まで線路が結ばれた時、「中央小樽駅」とまた改称されました。

当時、現南小樽駅は小樽駅と呼ばれていました。

だが、街の中心部にある主駅は中央小樽駅で、切符を間違えて求める乗客が多かったため、大正9年(1920年)になって両駅とも、現在名に改称されるに至りました。

小樽駅の現駅舎は昭和9年12月に完成しました。

函館や札幌も改築運動を行っていたが、小樽が一歩先んじました。

鉄筋コンクリート造りで、ホームから地下道を通って駅前広場に出るという、当時としては斬新な構えでした。

乗客は左右対照の洒落たベージュのタイル張りの建物に、上野駅みたいだと言う方が多いようです。

現在33個の石油ランプが駅舎内部で輝いております。

小樽ルネッサンス

かつて日本海に面した町はニシンで栄え、「鰊御殿」という当時の繁栄を偲ばせる建物が、今も海岸に見る事が出来ます。

しかし、追いニシンといって江戸時代から昭和の初期にかけて獲られたニシンも、時代を経て北へ北へと漁場が移動したのです。

小樽の漁場は江戸から明治にかけてニシン景気で湧いた時代で、勿論、大勢のヤン衆たちで浜は大賑わいでした。

その上、日本海の代表的な港である小樽港は明治32年には国際貿易港に指定され、内外の船の出入りが頻繁となり、物資の輸送も道内・道外からの物が小樽に集まってくる様になりました。

如何に小樽の港が繁栄していたか想像に難くないと思います。

物資と人の動きは必然的に金融関連の進出を促し、「行政の中心は札幌」「商業の中心は小樽」と定義付けるかのように北のウォール街と言われ、中央の銀行の出先は、ほぼ揃っておりました。

そんな中で、明治から昭和初期にかけて繁栄した小樽は様々な文化を残しました。

北海道内初の鉄道の敷設、港の整備と小樽運河、石倉庫群や民家・料亭も含めての歴史建物の数々、食文化、能、神楽など、両手に余る程の様々な方面の文化の発展を見たのです。

しかし、戦後の小樽はそれまでの歴史が止まったかの様に、明治・大正の建物はそのまま残され、今日を迎えたのです。

しかし、何が幸を生むかわからないもです。

小樽運河の埋め立てか、保存かの賛成・反対の両派の意見が対立するうち、小樽は小樽ルネッサンスに目覚めたようです。

過去の歴史の証を抹消することは、未来にきっと禍根を残すということに多くの人々は気付いたのでしょう。

古い物への郷愁は若いとか年寄りとかは関係なく、人々のルーツであり、歴史の生き証人に他なりません。

日夜、観光客でごった返す小樽の街の様子は、小樽っ子には冷たい見方をする方もいることと聞きますが、戦後の長い間、斜陽化の波が押し寄せていた頃を思えば、確実に笑顔で迎えてくれる人懐っこい小樽の人に、出会うことが出来る様になりました。

小樽の街並に入ると石造建築が建ち並び、まるでイギリスの何処かの街を連想する雰囲気を持っております。

石造建築ばかりではなく、レンガ建築・大理石建築・コンクリート建築など、当時の建築の粋を集めて、豪華で合理的に風土に合った建築方法で建てたものが、少なくても100棟以上、かつてのウォール街に残されております。

これらの建物はここ数年の間、随分様変わり致しました。

それと申しますのも歴史的建造物への「理解と利用」を両面から考慮したからです。

旧日本銀行小樽支店は金融資料館へ、旧拓殖銀行の建物はホテルからニトリ美術館へ、旧北海道銀行の建物は中央バス本社へ、旧第一銀行の建物はトップジェント紳装へ、旧三井銀行はさくら銀行、そしてニトリ美術館へと名を改めるなど諸々、上げれば切がありません。

小樽駅、昭和9年北海道で最初の、鉄筋コンクリート造りの駅として誕生しました。

地下道も有り、当時は、そのモダンぶりが自慢でした。この小樽駅、東京の上野駅に凄く似ているとは、思いませんか?

それもそのはず、この小樽駅は上野駅と姉妹駅になっております。

小樽の歴史

ここ小樽に、和人が姿を見せるようになったのは、今から320年ほど前の寛文9年(1669年)松前藩(氏家氏の知行場所)と、アイヌの人達が交易を始めてからの事です。

しかし、松前藩に雇われた商人や、ニシン漁の人達が、おおぜいやって来るようになったのは、それから100年も後のことで、しかも、当時は、和人の定住を認めていませんでしたので、秋になると、みんな引き上げてしまい、もとの静かなアイヌコタンに戻るという状態でした。

和人の定住が許されたのは安政3年(1856年)明治維新のわずか12年前です。以来、地理的条件にもめぐまれて、発展して来ました。

小樽の味、小樽は港町と言う事からでしょうか、飲食店の多い所でが、飲むにしろ、食べるにしろ、安くて美味しく😋(^_^)v、しかも人情こまやかな所と言われています。

おなじみさんが転勤ともなれば、一晩中店を閉めて送別会をしてくれるお店も有りますし、札幌からタクシーに乗って来ても、ススキノで飲むよりずっと安くあがるそうです。

小樽の味は、何と言っても海の幸です。

例えばお寿司、地元の人に言わせますと、最近は少し値上がりしたようですが、それでも、ネタの新鮮さと味の良さ、値段の安さは、函館とならんで話題になる所です。

また、ニシンやイカを、目の前で焼いていただく炉端焼きの素朴な味等、小樽は新鮮で豊富な食材を、いろいろな食べ方で楽しませてくれます。

北海道の方言

北海道の方言の成り立ち

北海道の方言には歴史的背景から、「海岸部方言」と「内陸部方言」に大きく分けることができます。

北海道に和人が初めて渡って来たには鎌倉時代初期からで、開発が始まったのは室町時代末期からといわれています。

蝦夷地での豊富な魚介類と交易を目的に松前町付近を中心に移住してきました。

移住者は当初、おもに下北、津軽半島の漁民でしたが造船技術の進歩により大型木船が造られるようになると秋田、山形、新潟、富山、石川、福井からも来道するようになりました。

移住し家は漁場を求めて海岸線沿いに定住していきました。

このことから「海岸部方言」はおもに東北地方出身者によって形成され、北海道の方言の基盤になりました。

一方、内陸部の開発にかかったのは明治2年(1869年)、開拓使が置かれてからです。

開拓使の拓殖計画により、本州各県から移住民が大挙して来道しました。これは北海道の防備と本州の生活困窮者救済、開墾が目的でした。

海岸部は数百年の間に徐々に開拓されましたが、内陸部はわずか数十年の間に急速に開拓されました。また、移住者の多くは農民や士族であったことや出身地が全国におよんでいたこともあり、海岸部とは異なることばが使われていました。

同郷人の多い所では出身地のことばが使われていましたが、入植者が増え出身地が混じったところではことばが通じなかったため、意思の疎通ができることばを求め合い「共通語」化され、残ったことばが「内陸部方言」となりました。

出身地の方言を捨て去る言語生活の積み重ねで、内陸の方言は形成されていきました。

小樽の方言

このように海岸部方言と内陸部方言では歴史的背景に違いがあります。

海岸部方言は道南を中心に日本海側、太平洋側、オホーツク海側の海岸部で使われているほうげんです。

さらに分類すると松前郡一帯の「松前方言」と松前を除く渡島、桧山、後志地方の「道南方言」、道南以外の「道東、道北、オホーツク沿岸方言」に分けることができます。

小樽は「道南方言」に属していますが、その色彩は薄まりつつある地域といえます。

発音のおもな特徴

「し」「す」「ち」と「つ」「じ」「ず」の区別がつきにくい。

〈例〉すす(寿司、獅子)、つつ(土、父、乳)、つず(知事、地図)

「い」と「え」が混同している。

〈例〉えだ(板、枝)、えぎ(息、駅)

「へ」と「せ」が混同している。

〈例〉へなか(背中)、かせる、かへる、(食わせる)

ことばの特徴

「べ」で二つの意味を表す。

〈例〉行くべ(行こう、行くだろう)

「ない」にあたるところは「ね」になる。

〈例〉見ね(見ない)、知らね(知らない)

助詞「に」「へ」「を」が「さ」になる。

〈例〉船さ乗る(船に乗る)、店さ寄る(店に寄る)

小樽でよく耳にするおもな方言

いやいや(やいや)

あいずちに使います。「まあまあ」などあいまいな感じ。

いずい

痛痒いこと。我慢できないほどではんくぁいが痛痒い状態。

おがる

おもに植物が成長したときに使うが、こどもが成長したときにも使うことがある。

おばんでした

こんばんは。なぜか過去形です。

がおる

疲れ果てて死にそうになる。疲れるの最上級。

がさい(がっさ)

物の状態が悪いこと。ダサイに似ている。

かっぱがす

ひっくりかえす。

きかない

勝気なこと。気丈。

しゃっこい

冷たい。

ちょす

触る、いじる、ちょっかいを出す、からかう。

つっぺ

栓をする。「つっぺかう」(栓をしてふさぐ)

はかいく

はかどる、作業が進む。

まかす

撒き散らかすこと。

まぶい

美しい、かっこいい。

ゆるくない

つらい、難しい、大変。

此れを覚えて、あなたも小樽人になりましょう。!!

方言は文化遺産

北海道の方言は、特に後志以南の海岸部の方言はいわゆる「浜ことば」といわれ、田舎の人の使う「悪いことば」だと思っている人が多いのですが、これは間違った考え方です。

ことばには地理的分布があり、分布範囲の広いことばが通用範囲も広く共通語となりました。

方言は、その範囲が狭く地域に残って行きましたが、その方言は自分が作ったことばではなく、親またその親から伝承された地域の貴重な文化遺産なのです。

方言には由緒ある古語が使われていたり、標準語では表せない感情や状態、深みを表現できる魅力あることばです。

方言の語源を探ると、もっと街の魅力を発見することができるかもしれません。

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小樽の歴史について

小樽が観光地として脚光を浴びた大きな切っ掛けは、何と云っても運河問題が、全国版になって大きく報道されたことです。

町を二分する大論争が何年にもわたって続くと云うことは、「それほど大論争をする価値があるのか」という大きな関心を呼ぶ事になり、その結果、小樽の近代経済史に残る、数々の歴史的建造物等が見直されるようになったからです。

明治、大正はまさに日本歴史の中でも数少ない大変革期であり、その経済的政策は、多くが北海道に向けられました。

その中心にいたのが小樽で小樽港の防波堤を見ただけでもその力の入れようが解ります。

幸か不幸か戦後の小樽の衰退が日本の高度経済成長にとり残さた存在だったために、大半の遺産が手をつけられないまま残されました。

小樽はまさに北海道の開拓博物館と云ってもいいのではないでしょうか。

現在の小樽は古いこれらの遺産と、まったく新しい商業施設が混在し、町の経済的構造は一変しておりますが、先人が築いた数多くの遺産の中に小樽市民は生きております。

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