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神威岬観光案内です。積丹半島観光ジャンボタクシー・送迎観光貸切タクシー
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積丹半島神威岬の先端にある積丹神威岩です。
積丹神威岩の伝説、積丹神威岬にまつわる悲しい恋の伝説です。兄頼朝の追手をのがれて、蝦夷地にわたった義経は、日高のアイヌコタンに滞在し、いつしかコタンの娘、チャレンカと恋仲になりました。しかし、大きな望みをいだく義経のこと、別れも告げず、ひそかに旅立ってしまったのです。これを知って驚いたチャレンカは、あとを追って、ようやく積丹神威岬まで来ましたが、ときすでに遅く、義経一行は帆をあげて船出したあとでした。チャレンカは遠ざかる船に、声の限り叫び続けましたが、むなしく波の音に打ち消されるばかり・・・。ついに悲しみと恨みを残して、崖の上から身をおどらせてしまい、積丹神威岩になったといい、それ以来、和人の船が、女性を乗せてこの岬を通ろうと、暴風雨がおこり、船の進むのを邪魔しますので、これはアイヌ娘の恨みと呪いによるものだろうと、語り伝えられています。積丹神威岩の伝説をご紹介しましたが、これは、和人の奥地定住をきらった松前藩が、女人禁制の政策を進めるために作った物語だろうと言われております。
積丹半島神威岬の突端に凛として立ち尽くす神威岩はあたかも海の巨人を思わせ、西の海に吸い込まれるように姿を消して行く太陽を背に、少しづつ海中に引き込まれて行く岩影を愛おしく見詰め、力強く肩怒らせて立ち尽くす様は、見る者を圧倒するエネルギーを感じるものが有ります。
「遥かなる思いを秘めて立ちつくす 巨石にかかる夕暮れの霧 伝説の岬に今日も一人来て 偲ぶ乙女の涙雨降る」詩人・紫陽花
神威岬は積丹半島の北西部に位置する岬です。古くから蝦夷地三嶮地の一つとして、更に、海上交通の難所としても恐れられておりました。安政二年十二月まではこの岬から北は女人禁制でした。
江差追分の歌い文句に
「忍路高島及びもないが せめて歌棄 磯谷まで」と有りますが、神威岬より東海岸、即ち、こちら側には女性を乗せた船は一切来てはならぬというお触れが元禄元(1688年)、松前藩から出されて以来このご禁制は厳しく守られていました。
この裏には松前藩の松前藩の財政となる蝦夷地で採れる産物の実態を幕府に知られたくないとという思いがあったようで、アイヌとの交易が藩の大きな収入源でしたので、他の和人が奥地に住みついては困ります。そこで婦女子が同行しなければ定住もしまいと考え、これを食い止めるためにアイヌの伝説にかこつけて、「女を乗せた船はカムイの怒りに触れて転覆する」などと、此れを理由に「女人禁制」としたのだと言われております。
何はともあれこの禁制が解かれる時が来ました。安政二年十二月と言えば既に幕府直轄になっていた蝦夷地でしたので、箱館奉行は「妻子召し連れ引き移り候うこと勝手たるべし」というお達しを出しました。
そこで安政三年、箱館奉行支配調役・梨本弥五郎は宗谷に赴任する際、妻子を伴ってこの岬を超え様と試みました。たとえ迷信と思いながらもこの岬に差し掛かった時、折しも波荒く「さては神の怒りか?」と恐れおののく船子たちや妻子を励ましました。弥五郎はひるむ事なく勇気を出し岬に向かって「国主、今未開の地を開こうとしている。あなたは何の神か?この志を妨げないで下さい」と船上で何度も叫びながら、波の静まるのを待ちました。やがて何事もなかった様に波は静まり、無事岬を交わして宗谷につく事が出来たそうです。(一説にはこの時、弥五郎は神威岬に矢を放って海は静まったとも言われています。)
無論それ以来、妻子を伴って岬の北に移住する者が増加し、積丹から余市・小樽・石狩に至る海岸に和人の住む村が多く出来たと申します。
しかし、迷信と言えど何と明治時代に入ってからも、神威岬の魔神伝説を信じる者もいて、岬を超える婦女子は未だ少なかったと言われております。
神威岬灯台
神威岬突端の灯台は「神威岬灯台」です。
標高約79mに位置し、とうだいの高さは9.5m、80万カンデラの灯りを42㎞沖に向けて放っております。
灯台周辺は風が強く雨や雪は降るのでは無く、下から吹き上がって来るといった気象条件の厳しいところです。
ただでさえ波荒い日本海、その海に突き出た岬は波浪や風によって、想像を遙かに越えたエネルギーで断崖絶壁の岬は容赦なく浸食され、何の衒いもなく変化を続けております。
海はいつも人間に挑戦するかの様であり、ある時は歯を剥きだして船を屈状させ、遭難事故が絶えませんでした。
そこで自然条件を少しでも克服するために、明治21年8月に北海道で2番目の「鉄造り石油灯」の灯台が設置されました。(北海道全体の灯台設置からは5番目)
灯台が設置されても海は人間の微力、愚かさを笑うかの様に、波は高く低く休む事なく今日も海岸に打ち寄せています。
女人禁制の場所として恐れられていた岬に立つ灯台は、かつては有人灯台でしたが、その後、昭和35年で無人となり、今もなお洋上を航行する船に向かって「命の灯」を放ち続けております。
積丹の漁港
積丹町には7つの漁港があります。かつてニシン漁で栄えた時代を背景に、現在もなお忙しく出船入船が昼夜をとわず行きかう様は、何時見ても活気がみなぎって力強い風景です。先祖代々受け継いで来た漁業を今も続ける漁民たちの顔は自信に溢れ、つくづく男の仕事場という感じがいたします。
ニシンに去られてもなお、ここに留まって先祖の残した足跡を消す事なく、積丹の海を守り続けている人々の姿は美しく、明るく前向きに時代を見据えて漁をしているのでしょう。
日本海の荒波が始まり、青葉の茂る5月を迎えると浜はヒラメ漁が始まります。
6月はウニ漁、7月はイカ漁の季節、このイカ漁が始まると遙か沖に点々と灯りがともり、まるで不夜城といった光景がみられるのです。イカ漁ならではの光景は秋に入っても続きますが、やはり秋と言えばサケ漁と相場は決まっていて、大掛かりな漁が展開されます。漁民の仕事はこれで終わらず、凍てつく寒い冬も「スケソウ漁」が待っています。スケソウダラ(スケトウダラ)は蒲鉾の原料であり、紅葉子・明太子の原料となる腹子はこのスケソウの子なのです。
こうして日本海の豊かな恵みを追って、今日も多くの船が浜に、海岸に、沖に出漁して、私達の食卓にいつも新鮮な海の幸を届けてくれるのです。
此方が神威岬からの積丹ブルーの海です。(^_^)v