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北海道・小樽朝里峠『夕陽&雲海』です。【小樽個人貸切観光タクシー髙橋】
北海道・小樽朝里峠『夕陽&雲海』です。【小樽個人貸切観光タクシー高橋】
おはよう御座います。👋😃☀
昨日仕事の帰りに、朝里峠で雲海と夕日に遭遇しました。
綺麗な風景だったので車を止めて写真👀📷✨撮りました。😃✌🚕🚕🚕
朝里峠
朝里峠は標高約700m、札幌市と小樽市の境界で御座います。(石狩支庁と後志支庁の境界でもあります。)
この路は明治9年に定山渓温泉発見者の定山和尚が、小樽と定山渓を結ぶ道を開削しようと計画していましたが、莫大な費用が掛かる事から断念せざるを得なかったルートです。
時代は進み、大正の始め頃、札幌から定山渓温泉を訪ねる人より、小樽方面から来るお客様のほうが多かったすで御座います。
当時、小樽から定山渓に行くときは、札幌経由でしか行くことが出来ず、そこで小樽の青年実業家「今井孝、加藤豊彦」等5人が昭和5年8月、2代目地崎宇三郎を社長に「小樽定山渓自動車道路株式会社」を設立し、朝里峠経由の道が計画されました。
その頃、道路を管理致しておりました内務省と鉄道省で許可をもらい、資本金40万円で会社をつくりました。
手始めに昭和6年に帝室御料林「今の国有林」の払い下げを受けましたが、このような払い下げを受けることは大変な事でした。そこは怪物と言われていた「地崎宇三郎」の事、宮内省、内務省、鉄道省を相手に、その力を発揮して許可を受けたという逸話が今も語り継がれております。
昭和8年着工以来3年目にして完成し、総工費は当時のお金で42万7千円であったそうです。
道路が完成すると有料道路とするために、朝里水源地と定山渓時雨橋の付近に見張り所と遮断機が設置され、昭和8年9月から会社のバスの運行が開始されました。「会社以外の車が通る時は、料金が徴収されたのは勿論の事」、因みに当時使われていたバスは米国製の「レオ20人乗り」で「かえで」「しらかば」「みどり」と名付けられ、座席に一部が展望車になっており、カーブのきつい道路に恐れをなすお客様が、辺りの風景を眺める心のゆとりが持てるよう、配慮された車であったようです。
昭和10年には8人乗りの「フォード・コマーシャル」が購入され、これに「つばめ」「せきれい」と名付け、天井が開閉自在の最新式の車を走らせておりました。
この頃は今の南小樽駅から1日5往復の運航でした。この道路の開通によって小樽と定山渓の間は従来2~3時間を要していましたが、わずか1時間で行き来出来るようになり、途中の風光明媚な旅は評判も良く、秋の紅葉の季節は「正に天下の絶景」として特に利用するお客様が多かったようです。
しかし、冬期間は雪の為、道路閉鎖、運転休止、会社の経営は中々大変だったようで、開通した当初2~3年はよかったのですが、やがて迎える戦争の影響もあって客足は遠退き、昭和17年10月バス路線は閉鎖され、会社も解散してしまいました。
この道は元々、私道として作られましたが、戦争も激しくなってまいりましたことから、この道を公道として利用しようと、軍からの指示もあって、小樽市と豊平町が朝里峠を境に100万円づつだしあって、この道路を買い取ったのでございます。
戦争も終わり、荒れるに任せていたために、橋は朽ちて落ち、路面にはいつの間にか木が生え、わずかに道路の跡が残っているだけでした。
小樽市と豊平町が管理していた道路は補修が大変で有る事から、北海道にこの道路が寄付されたのです。
道庁の土木では早速、昭和28年に改良工事を始め、朽ち果てた橋の架け替え、道路の補修工事が行われ、昭和29年10月に開通致しました。
その後、時代のニーズに合わせる為、昭和45年、改良工事、舗装工事が実施され、小樽、定山渓線として夏は涼を求め、秋は紅葉を冬はスキー場へと訪ねる車で賑わいを見せる様になりました。
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