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社台スタリオンステーションへ行って来ました。【安平町】
北海道観光貸切個人チャータータクシー高橋の安平町・社台スタリオンステーションへ行って来ました。
勇払郡安平町に有る、社台スタリオンステーションへ行って来ました。
残念ながら牧場の都合により、4月25日~6月末まで放牧は中止になっていました。😞(´;ω;`)
社台スタリオンステーションの面積は30haです。ディープインパクト、キングカメハメハ、ダイワメジャー、ハーツクライ、クロフネ、ハービンジャー、ヴィクトワールピサ、オルフェーベル等、国内外一流種牝馬を多数飼育。
国内外でG1を6つ制覇したモーリス、社台スタリオンステーションの歴史が生み出したドゥラメンテ、ミッキーアイルなどを加えさらに強力な布陣となちました。
トウカイテイオーのお墓も有りました。
お花や飲み物がいっぱいで、いまだに人気が有るんですねぇ~凄い!!
社台グループ
競走馬で何々シャダイと言う名の付いた馬を、何度か耳にしたことがあると思います。
このシャダイの名をかぶせた馬は、これからお話します社台グループに所属している牧場の生産馬なのです。
さて、この社台グループの前身は、先代の吉田善哉氏の父・吉田善助氏が経営する牧場から独立して、千葉県に設立した社台ファームが始まりです。
ノーザンテースト(平成16年12月11日死亡、33歳・・・人間であれば100歳を超えている。大往生)、サンデーサイレンス(平成14年8月19日死亡、16歳・・・衰弱性心不全)という日本競馬史上に残る種牝馬を輸入し社台ファームの繁栄の基礎を作りました。しかし、1993年(平成5年)8月、競馬界のドンとまで言われた吉田善哉氏が、72歳でこの世を去り、課税対象となった遺産額は約98億円と発表され話題になりました。
その後、牧場経営を担ったのが、長男の吉田照哉氏、次男の吉田勝巳氏、三男の吉田氏の3氏で、競走馬生産牧場の集団、社台グループを設立し、今日に至っています。
社台ファームは今から約80年程前の昭和3年、善哉氏の父・善助氏が札幌郊外の篠路から白老に移り、社台牧場を創設したのが始まりです。社台牧場が設立された牧場用地は、徳川幕府最後の将軍だった徳川慶喜(よしのぶ)の孫であった徳川慶光(よしみつ)が所有する2000町歩の土地で、これを10年で買い取り、乳牛を飼育すると共にサラブレッドの育成を始めました。
翌4年、アメリカに渡って種牝馬と牝馬合わせて16頭を購入するという、先代の思いきった経営は、当時、盛岡の小岩井農場、千葉の下総御料(しもうさごりょう)牧場であればいざ知らず、一個人の牧場としては画期的なこととして注目されました。善哉氏は当時、まだ小学生でした。学校へ行く以外は馬の世話に明け暮れ、寝ワラの中で過ごすことが多く、高校を卒業後、善哉氏は獣医の免許を取り、昭和14年にすでに開設されていた千葉の社台牧場の場長として就任、初めて馬と共に生きる道の第一歩を踏みました。
しかし、太平洋戦争が激しくなり、牧場で馬の世話をする牧夫は戦場へ、馬に食べさせる「かいば」にも事欠く始末、千葉から馬と共に白老へ戻って来ました。
2人の兄は病身、父、善助氏は昭和20年1月、この世を去りました。この年8月、終戦の日を迎え、人間も馬も如何にして生きてゆくかの戦いが始まりました。父親の遺志を継ぎ、牧場経営を続けようと、昭和30年、千葉の富里で独立、社台ファームを創設しました。
時代の先をよんだ善哉氏は、持ち前の度胸の良さと感どころで、本格的なサラブレッド生産、育成に欠かせない広大な敷地を各地域に確保し、最新の設備と軽種馬生産のノウハウをいち早く取り入れ、たちまちその効果が現れました。
昭和38年以来、日本の競走馬生産牧場のトップの座を維持し続け、競馬賞金獲得高では10%を超えているという日本一の牧場に発展しました。
アンバーシャダイ、ダイナガリバー、サッカーボーイ、イブキマイカグラ、ギャロップダイナ、レッツゴーターキーン、他にも何々シャダイと名前が付けられた多くの名馬を産出した牧場として今も、善哉氏亡き後もその意志は立派にご子息たちに引き継がれ、日本の競馬界に大きく貢献しています。
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