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恵庭市漁川沿いの紅葉です。【恵庭市】
北海道札幌小樽観光貸切個人ジャンボタクシー高橋の『道の駅恵庭漁川沿いの紅葉🍁』です。
恵庭市に有る、道の駅恵庭の横の漁川沿いの紅葉🍁が綺麗でした。😃✌🚖🚕🚖🍁
恵庭市の歴史
恵庭もかつてはアイヌ文化の栄えていた所で、チャシ跡などが茂漁川や島松川の流域で発見されています。
恵庭の地名もアイヌ語でエエンイワ、頭のとがった高い山の意味で、街の西方にそびえる恵庭岳を指しています。
安政4年、松浦武四郎の「夕張日誌」では絵庭、恵庭の2つで記録されており、現在の恵庭の文字が採用されたのは明治38年のことです。
ところで、江戸時代の松前藩の経済基盤は干しサケ、ニシン、コンブでした。
アイヌとの交易場所を商場(あきないば)と呼び、エゾの各所に置かれていました。この恵庭にも漁場所、島松場所の2ヵ所あったそうです。この場所では干しサケ、ワシの羽、シカの皮などの交易が行われていました。丁度その頃、西にそびえる空沼岳の麓では武川久兵衛こと飛騨屋久兵衛の手でエゾマツの大規模な伐採事業が行われていました。
エゾマツは昭和41年、北海道の木に指定されましたが、当時はエゾヒノキとかエゾスギと呼ばれ、その白い木目の美しさから将軍家への献上物の台や、障子、曲物(まげもの)などの材料として、江戸や大阪で珍重されていたのです。
今でさえ熊の棲みかと恐れられている空沼岳の山麓が当時、予想だにできないほどの伐採基地があり、多数の小屋が建てられ、飛騨屋の根拠地である南部・大畑(下北半島)からやって来たきこりたちで、時ならぬ賑わいを見せていたのです。
切り出された木材は春の雪解け水を利用して、漁川、千歳川を経て石狩川河口まで流送され、そこから大船で江戸や大阪まで運ばれて行きました。
今から230年も昔、恵庭のエゾマツが、江戸っ子や大阪の商人たちに役立っていたなどとは「仏さまでも知るめ~に」と、誰かの啖呵(たんか)が聞こえて来そうです。
漁川(いざりがわ)とダム
支笏湖の北西にそびえる漁岳に源を発し、恵庭市内を流れて千歳川に合流します。
さて、この川の上流約14㎞地点には漁川ダムがあります。漁川ダムは千歳川水系の洪水調整と、石狩東部の水道用水確保を目的として、昭和55年5月、国の手によって完成した多目的ロックフィルダムです。
堰堤の高さは42m、長さ270m、体積59万2000㎥の規模です。
また、ダム工事によって誕生したのが「えにわ湖」です。面積110ha(支笏湖の約80分の1)、貯水量1530万㎥(札幌市役所を1マスとして約83杯分の貯水量)、湖の周囲は樹木が湖水間近に迫り、自然湖に近い趣を見せてくれます。
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