昼と夜の小樽周遊観光プラン5時間ルートtourist貸切観光TAXIコース

観光貸切TAXIプラン ルート モデルコース

小樽駅or小樽市内ホテル~高島岬~旧青山別邸~旧日本郵船~北運河~田中酒造亀甲蔵~旧日本銀行(金融資料館)~小学生の時裕次郎と慎太郎が登った木~富岡カトリック教会~地獄坂~天狗山望台~船見坂~小樽駅or小樽市内ホテルor北一硝子orオルゴール堂

(有料道路利用料金 駐車場料金 施設体験見学使用料金等含まれておりません)

料金

小樽市内ゆったり5時間観光コース

普通車タクシーお客様4名まで乗車可能 1時間6300円×5時間=31500円

ジャンボタクシーお客様9名まで乗車可能 1時間8940円×5時間=44700円

モデルコースです。時間内コース変更可能です。

小樽のあらまし

明治のはじめ、札幌が北海道の中心に決まりますと、天然の良港だった小樽は、札幌への物資の陸揚げ港となり、やがて、石炭をはじめとする、北海道の物産の積み出し港となりました。

このため、明治13年には、小樽の手宮と札幌の間に、日本で3番目の鉄道が敷かれ、本州からの開拓移民もいったん小樽に上陸し、ここから奥地へと向かったものでした。

また明治38年、南樺太が、日本の領土となってからは、玄関口となった小樽は、樺太航路ができ、さらに第一次世界大戦の頃には欧米航路も開かれて、港はいつも船で埋まっておりました。

銀行街が北海道のウォール街と呼ばれ、小樽の雑穀市場が、ヨーロッパの市場をゆるがすほど栄えました。

敗戦で樺太を失って対岸貿易が減ったため発展のテンポは鈍りましたが、現在は、昔ながらのたたずまいを残す港町として、再び注目を集めることになりました。

小樽は坂の多い街で、家並みのあちこちから、青い海が顔をのぞかせています。

町を歩くと明治、大正のころを偲ばせる、運河や石づくりの建物にぶつかりますが、それらの古いたたずまいの、運河や倉庫などは、きれいに整備され、レトロな町並みをつくっています。

また、小樽には気取りのない人達が多く、おなじみのお客さんが転勤ともなると、一晩中お店を閉めて送別会をしてくれる飲み屋さんや、市場の人達など、小樽はそんな人情のこまやかさ、温かさある街です。

北海道の代表的な観光港町小樽

明治、大正、昭和の初めまで北海道の商業の中心都市として、栄華を誇っておりました小樽の街は今、当時のアンティークな建物を再利用した観光の街として、日々観光客で賑わっております。

今から30数年前、港小樽を代表する「運河埋め立て問題」が起こり、埋め立てか?保存か?両論が真向から対立し、

小樽市議会で大きく取り上げられ、しかし中々結論はでませんでした。

そこに結成されたのが小樽運河保存会で、会の人々は入り船出船で大いに沸き立った小樽の歴史を埋もれさせてはならない、小樽っ子の思い出の運河を何としても残そういう必死の守りを続けた事が、多くの賛同者や理解者を得ることができ、今日に至ったのです。

もし、あの時、そのまま車道にするため埋め立てていたら?今日の小樽の観光はあったでしょうか。

30数年の歳月は最良の結論を生み出しました。

運河の幅は40m、その半分を埋め立てて、残り半分を運河のままに残そうという事でした。

運河南側は昭和61年3月に散策路が設けられ、北側も当初の一部埋め立てを全面的に中止し、そのまま残すこととなり、平成2年1月南側に次いで散策路が設けられ、ガス灯が運河を照らしております。

小樽市は運河沿いの石倉庫群と合わせ、かつてウォール街といわれた旧日銀小樽支店等のある所を景観地区に指定し、民間企業の様々な事業努力が古いたたずまいの建物を利用して、現在のニーズにあった事業展開をすすめ、ここ数年の観光ブームとあいまって小樽への観光客は年間約700万人までになっております。

観光で今流行しているウォーターフロント「水際」、小樽は正にウォーターフロントそのもので、大都市札幌からわずか1時間の所に位置し、地の利の良さも手伝って「観光北海道」のブームもここまでかと思われている中、魅力あるアンティークな街並みは、訪れる者に安らぎと古き良き時代を偲ぶことの出来る懐かしさを与えてくらるところとして、多くの観光客が訪れております。

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にしん御殿(北海道指定有形文化財)

北海道指定有形文化財・にしん御殿

この建物は、昭和33年北海道炭鉱汽船株式会社が積丹の泊村にあった漁場建築物を解体して当地に移転後、小樽市に寄贈されたもので、昭和35年5月31日「北海道有形文化財・にしん漁場建築」として、本道の民家でははじめて文化財に指定されました。

本鰊御殿内には鰊漁や鰊加工に使われた道具類をはじめ、鰊番屋で生活していた人々の生活用具や写真等を展示しています。

建物の由来

積丹半島を中心とした日本海沿岸地域で、かつて鰊漁全盛の頃(網をひと起し、千両万両と言われた明治・大正時代)に、数多くの豪勢な鰊漁舎が建築されました。

この建物は、その中の元屋の一つで、泊村の鰊網元、田中福松氏が明治24年から7年かけて明治30年に竣工したもので、平成9年には、築100周年を迎えました。

現存する建物の中では大規模であり、かつ明治時代の原形をとどめており、華やかな往時を偲ぶ貴重な鰊漁場建築であります。

当時の漁業状況

元来この建物をとりまいて鰊漁場特有の漁舎である網倉、倉庫など数棟が建てられており、この田中漁場の全盛期には120人位のヤン衆(漁夫)が、ここに寝泊まりし漁期外でも越年仕事のため30人程度は常駐していたと伝えられております。

建網15ヵ統~18ヵ統を営んだ田中番屋のヤン衆は1ヵ統35人~40人位でしたので、鰊漁期には地元の手間取り等を数えるとその使用人は大変な人数となりました。

建物創建者

当時鰊大尽と呼ばれた積丹地方有数の鰊網元・田中福松氏は、青森県津軽郡蓬田村在住の田中吉兵衛の次男として生まれ、17才の時(安政元年)叔父の武井忠兵衛(積丹の古宇場所支配人)を頼り漁夫として来道しましたが、程なく独立して鰊刺網から漸次大規模な建網漁業(定置網)へ移行し、その漁獲は実に1万石(200貫、7500t)ともいわれました。

構造

一部2階建で、総面積は611.9㎡(185.1坪)を誇り、基本的は北陸・奥羽地方の切妻造の民家様式が採用されています。

主な特徴としては、大屋根中央に形良く乗っている入母屋造の煙出し、伽藍調を帯びた大屋根の庇、正面玄関の円屋根と直線の小庇との対照、脇玄関の庇を支えている像鼻等があり、いずれも民家には珍しい建築様式となっております。

建築用材

主として「たも」「せん」「とど松」等の道産原木や弁財船で東北から取り寄せた檜等約3000石(540t)が使われています。

仮に、この材料を使用して30坪の家を建てるとすると20軒分建てることが可能です。

いかに木材豊富な時代とはいえ、長大な木材をふんだんに使ったその時代の鰊場親方の豪放さ、神経の太さに驚かされます。

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小樽市祝津観光案内

小樽市祝津、小樽観光を代表する小樽の景勝地で、北海道の文化財に指定される小樽市祝津ニシン御殿をはじめ、ロマンチックな小樽市祝津日和山灯台、自然の海をそのまま生かした小樽市祝津水族館、白いヨットの浮かぶ小樽市祝津マリーナなどがあります。

小樽市祝津ニシン御殿

以前、積丹半島の泊村にあった大網元、田中家の住宅です。
白い壁と、黒い柱の美しいコントラスト、大屋根中央の「煙だし」など、まるで天主閣のようです。
また、一歩中へ入ると、一抱えもあるような、角材がふんだんに使われていて、ニシン全盛の頃のようすがしのばれます。

ニシン御殿のうしろにある、小樽市祝津日和山灯台は、映画「喜びも悲しみも幾年月」のラストシーンに登場して、全国に紹介された灯台です。
歌の一節のように、「沖行く船の、無事を祈って」立っています。

小樽市祝津の美しい海岸をそのまま生かして建てられた水族館には、2万匹あまりの魚が悠々と泳いでいます。
トドのダイビング、イルカやアザラシ・オタリアのショー、可愛いラッコなども人気を集めて、シーズンには「祝津銀座」といわれるほど、大勢の人達で賑わっております。

小樽市祝津日和山灯台

明治16年に建てられた古い灯台で、北海道では根室のノサップ灯台につぐ2番目のものです。
最初は6角形の木造で、白一色でしたが、現在は御覧のとうり、赤白の近代的な姿に生まれ変わり、15万カンデラの光が、35㎞の海を照らしております。

小樽市祝津ニシン御殿

以前、積丹半島西海岸の泊村にあったニシン場の親方、田中家の番屋で、昭和33年ここに移されました。
「番屋とは」、北海道独特の呼び名で、もともとは、松前藩時代の漁場の支配所で、運上屋の出先機関でしたが、のちに、ニシン漁を行う住居を指すようになりました。
そして、この番屋が中心になって、網倉や倉庫が幾棟も建っていたのです。
ところで、この田中家は、積丹半島屈指の大親方で、たくさんの漁場を経営し、漁獲高は、じつに1万石(7500t・4000万匹)を誇っていました。
全盛期には、120人の漁夫達が寝起きしていたそうです。
その田中家が、明治24年から、7年がかりでつくりあげたのがこの建物で、ほとんどが、北海道産のタモ、トドマツ、センなどの原木、3000石(1石は0.28㎥)を使っております。
これを、仮に15坪のマイホームを建てるとすると、40戸は出来るということです。
大屋根の中央の「煙だし」も、天主閣のような形をしていますが、中に入って、吹き抜けの天井を仰ぎますと、1尺から2尺(30cm~60cm)もある荒削りの角材が、ふんだんに使われていて、ニシン場の親方が、いかに裕福であったかが、おわかりいただけるかと思います。

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小樽市祝津に有る、小樽旧青山別邸

青山家は明治・大正を通じ、ニシン漁で巨万の富を築き上げました。
その三代目娘、政恵が十七歳の時、酒田市にある本間邸に魅せられて大正6年から6年半余りの歳月をかけ建てた別荘が小樽旧青山別邸です。

平成22年、国より登録有形文化財に指定されました。
約1500坪の敷地内に木造2階建てで建坪は190坪。
家屋の中は6畳~15畳の部屋が18室、それぞれに趣が異なり、金に糸目をつけず建てられた豪邸です。
祝津には、ニシンの全盛期をしのばせる建物が、いくつか残っておりますが、青山家別邸は、その中でも代表的なものの1つです。
カワラ屋根の豪壮な建物で、外観のいたるところに木彫りがほどこされ、内部も「北の美術豪邸」と呼ばれるにふさわしい、すばらしいつくりになっております。
なお、青山家は、安政6(1859)年からの網元ですが、最盛期のころには、漁場の数10、漁船百数十、漁夫300人をかかえていたそうです。

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小樽市色内に有る、旧日本郵船小樽支店

明治39年につくられたもので、日本銀行小樽支店とともに、小樽の明治洋風建築の双璧といわれ、規模こそあまり大きくありませんが、正面は、バルコニー付の玄関を中心にして、左右対照になっていて、軒下の石の装飾も、大変素晴らしものです。
また、内部も、彫刻をめぐらせた大きな丸い柱や、(大会議室の)豪華なシャンデリア、(貴賓室の)大理石のマントルピースなど、当時の繁栄ぶりを物語っています。
なお、この建物は、完成直後の明治39年11月、日本とロシアの間で、南樺太の国境を定める会議(日露国境画定会議)が開かれ、まさに歴史の檜舞台でした。
この建物の設計者は佐立七次郎博士で、現・東京大学工学部の前身、工部大学校造家学科の1期生です。

ところでこの1期生は、佐立七次郎、辰野金吾、曽根達蔵、片山東熊のわずか4人ですが、佐立は、明治39年完成の日本郵船小樽支店、辰野は、明治45年完成の日本銀行小樽支店、曽根は、昭和2年完成の三井銀行小樽支店の設計をおこなっています。
日本建築の土台をつくったと思われる4人のうち、3人までが小樽で腕を振るったことは、興味ぶかいことです。

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埋め立て式小樽運河

運河というと、一般には陸地を掘った水路と考えますが、小樽運河は掘り込み式では有りません。

海岸から一定距離の海面を残し、その先を埋め立てるというものです。

その結果できた水路で、埋め立て式運河と称されます。

明治になって小樽の海岸は堺、港、南浜、北浜と次々埋め立てられ行きました。

その先の海面埋め立ては明治32年(1899年)以来、事業主体や計画などをめぐっていろいろともめ、道庁から最終時に許可されたのは明治41年でした。

この時の計画は埠頭岸壁方式でした。

さて、いざ着工の段階になりましたが、今度は起債が思うようにつかないのです。

スタートを一年延期しているうち、明治42年7月、欧米の港湾視察から帰国した広井勇工学博士が「小樽の場合、貨物の種類、荷造りなどからみて、埠頭岸壁式よりハシケを利用する運河式の方が良い」との意見を発表しました。

広井勇氏は、これより一年前、小樽港北防波堤を築造、完成させ、東大教授という権威者でした。

港湾の神様の意見により、新しい埋め立て計画は埠頭岸壁式から運河式へ、大きく転換することになりました。

小樽運河

大正3年~大正12年、約10年掛けて埋め立て完成しました。

完成当時は長さ1324m幅40mでしたが道路を造るのに埋め立てられて現在は長さ1140m幅20mです。

港のさらなる発展をめざした埠頭の建設

北海道の開拓が進み、産業の復興は小樽港の整備を待ってはくれませんでした。

運河が完成した大正12年(1923年)の翌年大正13年(1924年)には、入港船舶隻数は6248隻を数え、取扱貨物量は250トンを数えました。

その結果、貨物の積み降ろし、燃料の石炭の搬入、蒸気機関のボイラー用水や、飲料・生活水の供給を全て艀で行うことは効率が悪く、増大する船舶量に応えることが難しくなってきました。

また、艀による荷役は天候に左右されるので、改めて埠頭岸壁式の港づくりが求められました。

小樽運河が完成した大正12年(1923年)、増大する貨物量に対応するために、埠頭を建設することの許可申請がなされています。

その後、昭和2年(1927年)から、の北海道第二期拓殖計画の中で、小樽港の岸壁・埠頭施設の整備が盛り込まれ、北海道初の突堤式の公共埠頭が建設されることとなりました。

昭和7年(1932年)、立岩から勝納川に至る約1310mの海岸埋め立てが竣工します。

そして、延長352m、水深6.6mの堺町岸壁が完成しました。

続いて、昭和9年(1934年)には延長212m、水深7.4mの厩岸壁が完成します。

厩町の埋め立てでは岸壁以外の施設が築造されたほか、小樽港で待望された船舶修理場などの施設も設備されました。

堺町、厩町の両岸壁が完成したことで、2000トン~3000トン級の船舶が直接接岸できるようになり、樺太航路などで利用されました。

昭和10年(1935年)には突堤式の第一号埠頭の建設が始まります。

1万トン級の船舶と、6000トン級の船舶が係船できるバース(船舶係留場所)が設けられました。

埠頭の面積はおよそ3万8000㎡。

幅員127m、長さ右310m、左293mで、総工費はおよそ99万円でした。

昭和12年(1937年)には、第二号埠頭が、昭和15年(1943年)には第三号埠頭の建設が始まりましたが、第二次世界大戦の影響で昭和18年(1943年)までに工事は打ち切られました。

大正11年(1922年)には、小樽港から運び出される石炭は年間百万トンを超えるようになり、手宮駅構内の既存施設からでは石炭の積出が間にあわなくなってきました。

大正15年(1926年)、鉄道省は小樽港の海陸連絡設備の根本方針と具体案を決定しました。

それは、勝納川、若竹町の埋め立てを進め、貯炭場、貯木場を建設するほか、岸壁を整備すると共に、長さ170m、幅18m、水深8.5mの石炭船積み桟橋を建設する計画で、7000トン級の船舶を係留して荷役を行うことで、石炭を年間365万t、木材を28万t、雑貨4万6千tを扱うというものでした。

工事は昭和2年(1927年)に始まり、昭和11年(1936年)に東洋一といわれた近代的な石炭荷役施設が完成しました。

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小樽市色内に有る、旧日本銀行小樽支店

小樽は歴史の重みを感じさせる建物が多く、ハウスウォッチングの楽しみある街並みです。
旧日本銀行小樽支店は小樽に残っている、明治洋風建築を代表するものの1つで、どっしりとした土台、ぶあつい石の壁、そしてルネッサンス・スタイルの建物は、西洋の古いお城を思わせます。
壁の凹凸や、軒下に見られる石の装飾、奥深い玄関や長い窓、それお守るように立つ柱など、どれ一つ取り上げても、素晴らしいデザインですが、とくに、ドーム付き屋根が魅力といわれております。
この建物は明治45(1912)年レンガ造りでつくられたもので、設計者は元の日本銀行本店や、赤レンガの東京駅をつくった辰野金吾氏です。

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小樽天狗山

天狗山は標高532mとあまり高い山ではありませんが、展望は小樽市街はもちろん、港や石狩湾をはじめ、積丹半島、さらに遠くの増毛連峰を一望のもとに眺めることができ、とくに、夜景のすばらしいところです。

小樽天狗山ロープウェイで山頂(8合目)まで上がりますと、スキーに関する資料、100種類、天狗の名にちなんで、日本各地から集めた、700点あまりの天狗のお面がならぶ「天狗の館」があり、「シマリス公園」や、草の上をすべりおりる、ドイツ生まれの夏のソリ「スライダー」は、子供たちの人気を呼んでいます。

山頂付近は、自然景観保護地区にも指定されていて、遊歩道も整備されています。
また、冬は海の見えるスキー場として、全国的にも知られ、四季を通じて市民や観光客に親しまれております。

スキーの街小樽、ここ小樽は、ほんとうに山坂が多く、雪もたくさん積もりますので、むかしは冬になると、街全体がスキー場のようなものでした。
したがって、スキー熱も高く、大正11年には、第1回全国スキー大会が行われています。
また、多くの名選手を生み出し、戦前のオリンピックなど、国際競技に出場した選手は、小樽勢がほとんどで、日本のスキーの歴史は、小樽によって作られたといっても過言ではありません。

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小樽市信香町に有る、小樽田中酒造亀甲蔵

小樽旧岡崎倉庫、岡崎謙、明治10(1877)年佐渡生まれ。
東京英和学校、国民英和学校、東京高等商業学校(一橋大学)で学び、明治32(1899)年に米、荒物、雑穀、倉庫業の家業を継いでいます。
区制時代には区会議員、市政時代には市会議員、昭和2(1927)年には議長になっています。

前田家のおかかえ能楽師であった波吉宮門に能を学び能を愛していました。
自費で能舞台を自宅に普請するほど文化にも造詣が深かったようです。
能楽堂は市に寄贈され、公会堂の一角に建っています。

また、現在田中酒造亀甲蔵は明治39(1906)年に建てられた旧岡崎倉庫です。
酒と水、1升(1.8ℓ)の酒をつくるには10升の水を使うといわれるように、酒の10倍以上の水が様々な段階で必要です。「洗米」米を洗う水、「浸漬」米を適度に潤す水、「蒸米」米を蒸気で蒸す水、「仕込水」米と麹とを一緒にタンクに入れる水、「割水」度数調整のための水といったほとんど全てのプロセスで水を使用します。
小樽が自慢できる味を環境として助けてきたのは、まさに小樽の水に他なりません。
田中酒造亀甲蔵、明治32(1899)年に創業した田中酒造(株)が平成8(1996)年に設置した酒造工場と見学施設です。10種類以上のお酒が試飲できるミュージアムです。

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小樽市富岡に有る、小樽富岡カトリック教会、昭和4年に、ドイツ人宣教師の設計・指導で建てられた、小樽カトリック富岡教会です。
ツタにおおわれた天主堂、ステンドグラスをはめ込んだ飾り窓、アーチ型に石を組んだ玄関など、ロマンチックな香りただよう教会です。

なお、このあたりは、亡き石原裕次郎さんが(3歳~8歳までの)少年時代をすごしたところです。

もう一枚の写真は小樽公園です。
小樽公園は、小高い丘の上につくられた、緑の多い公園で、北海道でただ一つの能楽堂をはじめ、市民会館や体育館、図書館・公会堂・野球場などが点在します。
また、15種類7000本のツツジが植えられていて、花の季節は、目も覚めるばかりの美しさです。
このツツジは、小樽市の「市の花」に選ばれていますが、庭木が「市の花」になっている珍しい例です。

北海道の方言

北海道の方言の成り立ち

北海道の方言には歴史的背景から、「海岸部方言」と「内陸部方言」に大きく分けることができます。

北海道に和人が初めて渡って来たには鎌倉時代初期からで、開発が始まったのは室町時代末期からといわれています。

蝦夷地での豊富な魚介類と交易を目的に松前町付近を中心に移住してきました。

移住者は当初、おもに下北、津軽半島の漁民でしたが造船技術の進歩により大型木船が造られるようになると秋田、山形、新潟、富山、石川、福井からも来道するようになりました。

移住し家は漁場を求めて海岸線沿いに定住していきました。

このことから「海岸部方言」はおもに東北地方出身者によって形成され、北海道の方言の基盤になりました。

一方、内陸部の開発にかかったのは明治2年(1869年)、開拓使が置かれてからです。

開拓使の拓殖計画により、本州各県から移住民が大挙して来道しました。これは北海道の防備と本州の生活困窮者救済、開墾が目的でした。

海岸部は数百年の間に徐々に開拓されましたが、内陸部はわずか数十年の間に急速に開拓されました。また、移住者の多くは農民や士族であったことや出身地が全国におよんでいたこともあり、海岸部とは異なることばが使われていました。

同郷人の多い所では出身地のことばが使われていましたが、入植者が増え出身地が混じったところではことばが通じなかったため、意思の疎通ができることばを求め合い「共通語」化され、残ったことばが「内陸部方言」となりました。

出身地の方言を捨て去る言語生活の積み重ねで、内陸の方言は形成されていきました。

小樽の方言

このように海岸部方言と内陸部方言では歴史的背景に違いがあります。

海岸部方言は道南を中心に日本海側、太平洋側、オホーツク海側の海岸部で使われているほうげんです。

さらに分類すると松前郡一帯の「松前方言」と松前を除く渡島、桧山、後志地方の「道南方言」、道南以外の「道東、道北、オホーツク沿岸方言」に分けることができます。

小樽は「道南方言」に属していますが、その色彩は薄まりつつある地域といえます。

発音のおもな特徴

「し」「す」「ち」と「つ」「じ」「ず」の区別がつきにくい。

〈例〉すす(寿司、獅子)、つつ(土、父、乳)、つず(知事、地図)

「い」と「え」が混同している。

〈例〉えだ(板、枝)、えぎ(息、駅)

「へ」と「せ」が混同している。

〈例〉へなか(背中)、かせる、かへる、(食わせる)

ことばの特徴

「べ」で二つの意味を表す。

〈例〉行くべ(行こう、行くだろう)

「ない」にあたるところは「ね」になる。

〈例〉見ね(見ない)、知らね(知らない)

助詞「に」「へ」「を」が「さ」になる。

〈例〉船さ乗る(船に乗る)、店さ寄る(店に寄る)

小樽でよく耳にするおもな方言

いやいや(やいや)

あいずちに使います。「まあまあ」などあいまいな感じ。

いずい

痛痒いこと。我慢できないほどではんくぁいが痛痒い状態。

おがる

おもに植物が成長したときに使うが、こどもが成長したときにも使うことがある。

おばんでした

こんばんは。なぜか過去形です。

がおる

疲れ果てて死にそうになる。疲れるの最上級。

がさい(がっさ)

物の状態が悪いこと。ダサイに似ている。

かっぱがす

ひっくりかえす。

きかない

勝気なこと。気丈。

しゃっこい

冷たい。

ちょす

触る、いじる、ちょっかいを出す、からかう。

つっぺ

栓をする。「つっぺかう」(栓をしてふさぐ)

はかいく

はかどる、作業が進む。

まかす

撒き散らかすこと。

まぶい

美しい、かっこいい。

ゆるくない

つらい、難しい、大変。

此れを覚えて、あなたも小樽人になりましょう。!!

方言は文化遺産

北海道の方言は、特に後志以南の海岸部の方言はいわゆる「浜ことば」といわれ、田舎の人の使う「悪いことば」だと思っている人が多いのですが、これは間違った考え方です。

ことばには地理的分布があり、分布範囲の広いことばが通用範囲も広く共通語となりました。

方言は、その範囲が狭く地域に残って行きましたが、その方言は自分が作ったことばではなく、親またその親から伝承された地域の貴重な文化遺産なのです。

方言には由緒ある古語が使われていたり、標準語では表せない感情や状態、深みを表現できる魅力あることばです。

方言の語源を探ると、もっと街の魅力を発見することができるかもしれません。

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