積丹半島観光TAXI 積丹満喫ルート タクシー貸切8時間コース観光プラン

8時間コース 観光ルート モデルプラン

小樽駅or小樽市内ホテル~カトリック富岡教会~旭展望台~マッサンの余市ニッカウィスキー工場~オチガビガーデン~美国観光船~積丹岬~神威岬~鰊御殿とまり~岩内~小樽市内各ホテルor小樽駅 (有料道路利用料金 駐車場料金 施設体験見学使用料金等含まれん)

料金

小樽市~余市町~積丹半島 満喫ゆったり8時間観光貸切チャータータクシーAコース

普通車タクシーお客様4名まで乗車可能 1時間6300円×8時間=50400円

ジャンボタクシーお客様9名乗車可能 1時間8940円×8時間=71520円

モデルコースです。時間内コース変更可能です。

積丹町の歴史

行政の中心である旧美国町は昭和31年9月、近隣の入舸村と余別村が合併して積丹町を名乗る様になりました。

この町の町章を見ますと三羽のカモメで描かれており、美国・入舸・余別が一つの町に統合された事を表しております。

積丹とはアイヌ語で「シャクコタン」夏の村・集落の事です。その言葉の通り今から4千年ほど前、縄文人そして後にはアイヌ人がこの辺りの海岸線に、夏の集落を作り居住した事からこの地名が生まれた様です。

この町に和人の歴史が始まったのは今から350年前の慶長年間で松前藩の領地となり、宝永3年(1706年)には美国場所と積丹場所の両場所が設けられました。

美国場所(現在の美国)は松前藩・近藤家が、積丹場所(現在の日司)は松前藩・藤倉家が代々知行主で、漁場所はもともと、知行主に代わって場所請負人が治めていました。

中でも積丹場所請負人、岩田金蔵は安永5年(1775年)から明治まで、長期に亘って代々場所請負人を務めてきた方で、後には美国場所も治める様になりました。

明治に入って請負制度は廃止され明治35年には美国町となり、39年には余別・入舸に村制が施行されるなど、早い内から多くの人々が日本海に面した積丹の漁場に定住していた事が伺われます。
特に明治から大正時代にかけてニシン漁場として栄えた所で、鰊が群来る時、海面は銀色に染まり、ニシンを追ってやって来る大勢の「ヤン衆」達で漁場は一層活気づいたともうします。

ヤン衆達がニシン漁場で作業歌としたのがあの有名な「ソーラン節」で、北海道を代表する民謡として今も歌い継がれております。
「ソーラン節の発祥の地は我が町」と名乗り出ているのが、隣り町の余市町と積丹町の両町で、本家争いとまでは至っておりませんが、それぞれ、記念碑を建てて地盤固めをしているようです。

手にすくうと無色透明な海の水。

なのに、大海では息をのむはど美しい色彩をまとい、大自然の荒々しい造形を優美な芸術作品に変身させる力を持ちます。

日本近海の黒潮はマリンブルー。

エーゲ海はコバルトブルー。

南国リゾートはエメラルドグリーン。

そして、積丹は『しゃこたんブルー』。

その独特で清冽な紺碧のグラデーションは、日本海の荒波に削られたダイナミックな奇岩群に一層の神秘性を与えております。

ここでしか見られない奇跡の絶景に抱かれ、青い海のイメージを刷新するとびきりの体験を、さぁ、積丹半島で。

それぞれに趣の違う個性的な眺望を楽しめる展望台が点在する積丹岬エリアは、『しゃこたんブルー』を満喫できるのが魅力です。

特に『日本の渚百選』のひとつである島武意海岸は、断崖絶壁が続くなか唯一波打ち際まで下りられるスポットです。

暗いトンネルを抜け、いきなり眼下に現われる鮮やかな『しゃこたんブルー』の海は衝撃的です。

積丹の漁港

積丹町には7つの漁港があります。
かつてニシン漁で栄えた時代を背景に、現在もなお忙しく出船入船が昼夜をとわず行きかう様は、何時見ても活気がみなぎって力強い風景です。
先祖代々受け継いで来た漁業を今も続ける漁民たちの顔は自信に溢れ、つくづく男の仕事場という感じがいたします。

ニシンに去られてもなお、ここに留まって先祖の残した足跡を消す事なく、積丹の海を守り続けている人々の姿は美しく、明るく前向きに時代を見据えて漁をしているのでしょう。

日本海の荒波が始まり、青葉の茂る5月を迎えると浜はヒラメ漁が始まります。

6月はウニ漁、7月はイカ漁の季節、このイカ漁が始まると遙か沖に点々と灯りがともり、まるで不夜城といった光景がみられるのです。
イカ漁ならではの光景は秋に入っても続きますが、やはり秋と言えばサケ漁と相場は決まっていて、大掛かりな漁が展開されます。
漁民の仕事はこれで終わらず、凍てつく寒い冬も「スケソウ漁」が待っています。
スケソウダラ(スケトウダラ)は蒲鉾の原料であり、紅葉子・明太子の原料となる腹子はこのスケソウの子なのです。

こうして日本海の豊かな恵みを追って、今日も多くの船が浜に、海岸に、沖に出漁して、私達の食卓にいつも新鮮な海の幸を届けてくれるのです。

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積丹半島の先端はカタツムリのツノのように、積丹神威岬と積丹岬が突き出ていますが、イリカはその一つ、積丹岬にいだかれた小さな漁村です。
市街から積丹岬へは簡単に行くことが出来、遊歩道の散策や、積丹島武意海岸の絶景もお楽しみいただけます。
また、積丹島武意海岸へは、地下水のしたたり落ちる素掘りのトンネルを通って行きますが、暗いトンネルを抜けると、そこは青一色、ファンタジーの世界に飛び込んだような素晴らし景観です。
写真は日本の渚100選、積丹岬島武意海岸の積丹ブルーの海です。

水無しの立岩1_thumb_2 積丹カムイ岬3 女人禁制の門

写真左が積丹半島神威岬に有る、積丹水無の立岩です。
その少し右に現在落石で危険なため、通行止めになっている積丹念仏トンネルが有ります。
以前は真っ暗な積丹念仏トンネルを通って積丹半島神威岬の突端へと向かっておりました。
このトンンネルが掘られたのは1つの海難事故がきっかけとなっております。
大正元年10月積丹神威岬灯台に勤める職員の家族が買い物をして岩場を伝って家に戻る途中、波にさらわれて行方不明になりました。
いつまでたっても帰らないので、手分けして探したところ、岩場に漂っている遺体を発見したのです。
涙ながら葬儀を終えた灯台の職員や家族たちは、再び悲しい事故が起きないためにも、断崖にトンネルを掘ろうと言う事になりました。
職員たちは仕事の合間をみつけては、波しぶきのたつ断崖に張り付いて、最も危険な神威岬に通じる断崖を両側から掘り出しました。
掘り出してどの位たったでしょう。
どこからか誰かの叫ぶ声がきこえたのです。
それは亡くなった人の声のようでした。
ところが両方から掘ってもう何か月にもなるのに、どうしたことか貫通しないのです。
職員たちが調べた結果、掘った穴が大きくずれている事がわかりました。
「仕方がない、途中から曲げて結ぼう」と片方から右折する形で掘りぬきました。
わずかにずれていると思っていたのが、かなり大きく食い違っておりました。
トンネルが出来波打ち際の通行が便利になりましたが、人々はここを通るとき、亡き人をしのんで念仏を唱えながら歩きましたので、念仏トンネルになったとか、また、一説には暗闇で恐ろしくてたまらないので、念仏を唱えながら通った事から念仏トンネルと呼ばれるようになったとも呼ばれております。
となりの写真は積丹神威岬と積丹神威岬灯台です。

神威岬灯台

平成15年9月、神威岬灯台が一般公開され、話題になりました。

建てられてから43年を経過しており、老朽化が進んでおりました。

灯台の主塔部を強化プラスチックで包み補強するなど、改修工事が終了しました。

神威岬は年間、約37万人が訪れる観光名所です。

そこで灯台の出入り口や灯光を発する部屋を大きくし、見学出来るようにしました。

以来、毎日の見学は出来ませんが、灯台の定期点検に合わせて一般公開をするそうです。

積丹ブルーの海も大変綺麗です。
積丹女人禁制門みえております。
積丹神威岬の婦女通行の禁、積丹神威岬付近は、天気の良い日でも波の高い事が多く、昔は、少し荒れだすと、小さな船ではなかなか通ることが出来なかった難所で、蝦夷三険岬(茂津多・神威・雄冬)の1つに数えられていたところです。
ところで、松前藩時代には、この岬から北へは、女性が行くことを認めておりませんでした。
それは松前藩ではこの積丹神威岬から北は、和人の定住を禁じていて、そこに女性が入ると言う事は、定住を意味したからでした。
和人が、交通の不便な奥地に、どんどん入るようになっては、藩の力で、とても取り締まる事が出来なくなるからです。
したがって、奥地に入るのは、ニシン漁に行く男だけに限られていて、恋し人との別れを惜しむ、妻や恋人の思いが、「恨みますぞえ、お神威さまは、なぜに女の足止める」「忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷まで」と、追分節にもうたわれています。
この女人禁制の掟が解かれたのは、安政3年(1856)、蝦夷地を幕府が直接おさめるようになった翌年の事です。
宗谷へ赴任するお役人、梨本弥五郎が、初めて妻子をつれて、この岬を通過しております。

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積丹半島のニシン漁で栄えた、いにしえの村、積丹半島泊村そこには貴重な文化遺産が広がる。
写真は鰊御殿とまりです。
かつてニシン漁でさかえた積丹半島泊村、その当時の繁栄と歴史を伝える施設です。
並ぶ建物は明治27年(1894)に建設された「旧川村家番屋」と大正5(1916)年頃に建てられた「旧武井邸客殿」そして付属するレンガ造りの蔵で、二つの建物は渡り廊下でつながっており、当時の様子を伝える貴重な資料が展示されております。泊村有形文化財指定

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上の写真は余市町に有る、余市町ニッカウヰスキー北海道工場です。
ウイスキーのモルト、すなわち原酒を作っているところです。
お酒は、お水と気候の良いところに美味しいものが生まれるといいますが、余市町は三方が山、一方は海に囲まれ、余市川の清流と、澄んだオゾン、温度・湿度など、スコッチの本場、スコットランドそっくりなのだそうです。
ニッカウヰスキーの生みの親は竹鶴政孝さんですが、竹鶴さんは、スコットランドで醸造学を勉強、帰国後、入社した寿屋(現在のサントリーウイスキー)で、昭和4年、国産第一号のサントリーウイスキーを誕生させました。
その後独立して、かねてから白羽の矢を立てていた余市町に工場を建て(昭和9年)、リンゴジュースなどを作りながら、ウイスキーの熟成を待ち、ニッカウイスキーを世に送り出したのは、昭和15年のことです。
なお、ニッカの名前は、以前の会社名、大日本果汁の略、大日本の「日」と、果汁の「果」からとって[ニッカ]と名付けたということです。

NIKKA WHISKY 余市蒸溜所

竹鶴政孝

明治27年6月、広島県竹原市にあった造り酒屋の三男として生を受けました。小さい頃はワンパクで8歳の時、自宅の階段から転げ落ちて鼻を強打し、七針も縫う大けがをしたのです。

ところが、これが何と国産スコッチを世に送り出す前兆だったのですから、わからないものです。その上、生まれた時から人一倍、鼻が大きな赤ん坊で回りが驚いたくらいなのですから。

「このけがで鼻が通るようになって、人並み外れた大きな鼻、臭覚が生まれ、ウイスキー造りに役立った」と政孝氏は生前語っておられたそうです。

大正5年、大阪高工醸造科を卒業し、大阪の摂津酒造に勤務しました。当時、イギリスのウイスキーが日本市場に入り込み、ウイスキーに関しては我が国のものは焼酎に色を付けた程度のイミテーションだったのです。

気骨のある摂津酒造の社長・阿部喜兵衛の勧めによって大正7年3月、大勢の見送りを受けて横浜から船に乗ってアメリカ経由でイギリスへ旅立ちました。

「わざわざ日本からウイスキーの研究にやって来るとは奇特な若者」と、目を掛けてくれるイギリスの技術者にも恵まれ、ウイスキーの技術を習得して日本に帰国したのが大正10年9月、竹鶴は永遠を誓って結婚したゼシー・リタを伴っておりました。

3年間の留学で習得したウイスキーに関する知識は、中々日本の酒造会社では受け入れて貰えず、摂津酒造からサントリーへ、そして昭和8年サントリーを退社し、かねがね目を付けていた余市でのウイスキー造りの準備に取り掛かりました。

ウイスキーは熟成の時間が必要で、手始めにリンゴジュースやブランデーを造って販売し、昭和11年にウイスキーを作り、4年後の昭和15年、ニッカの第一号が世に出たのです。

ニッカは、現在、全国的な洋酒メーカーに成長し、余市の他には仙台の原酒工場をはじめ、東京、弘前、西宮、九州などに工場があります。

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小樽市富岡に有る、小樽富岡カトリック教会です。
昭和4年に、ドイツ人宣教師の設計・指導で建てられた、小樽カトリック富岡教会です。
ツタにおおわれた天主堂、ステンドグラスをはめ込んだ飾り窓、アーチ型に石を組んだ玄関など、ロマンチックな香りただよう教会です。
なお、このあたりは、亡き石原裕次郎さんが(3歳~8歳までの)少年時代をすごしたところです。
となりの写真は小樽公園から小樽港を望んだ写真です。
小樽公園は、小高い丘の上につくられた、緑の多い公園で、北海道でただ一つの能楽堂をはじめ、市民会館や体育館、図書館・公会堂・野球場などが点在します。
また、15種類7000本のツツジが植えられていて、花の季節は、目も覚めるばかりの美しさです。
このツツジは、小樽市の「市の花」に選ばれていますが、庭木が「市の花」になっている珍しい例です。

北海道の四季

冬の長い北海道は本州にくらべると季節の移り変わりが早く、四季それぞれに趣きを変えて、訪れる人々の旅情をさそっております。

(春)

3月から4月にかけて、雪解け水を集めた川は水かさを増し、野では長い間眠っていた黒い土が顔を出し、フキノトウやフクジュソウが春の訪れを告げます。

街ではまだ雪が残っているうちに、人々は軽やかなよそおいに変え、ほおをなでる春風の完食を楽しみます。

(夏)

美しきもの 皆もろし 鈴蘭の

とく しおかおるが 美しきかな (有島武郎)

5月には桜、スズラン、ライラックなど、北国の花の季節です。

そして夏は青く澄んだ空気に満ちあふれ、緑一色の野山、紺碧の海、原生花園の美しさ、このみずみずしい季節を心から楽しもうと、いたるところでお祭りがくりひろげられます。

港まつり、湖水まつり、火まつり、温泉まつりなど、北海道ならではのロマンの祭典が旅人に忘れがたい思い出を刻むのです。

(秋)

しんとして 幅広き街の 秋の夜の

とうもろこしの 焼くるにほひよ (石川啄木)

8月を過ぎますと、秋が足早にやってまいります。

北国の秋の風物詩は、街角に漂うトウキビのにおい、目に染みるような青い空にすっくと立つポプラの葉ずれの音、そして山の頂から急ぎ足で降りてくる紅葉の燃えるような赤から始まります。

この頃の北海道は山の幸、海の幸の味覚でいっぱい、リンゴ、ジャガイモ、シシャモ、アキアジ、タラバガニ、これらの珍味に舌づつみをうちながら、長い夜のひとときを過ごします。

(冬)

寒い朝、遠くの山々を見ると頂が白く、「ああ冬だなぁ」と心が引き締まります。

雪が降り、そして消え、また降りしきり根雪になります。

根雪が消えるまでの長い冬の間、北国の人々は雪の中で楽しむことを忘れません。

老いも若きもスキーに、スケートにウインタースポーツの花を咲かせます。

今では国際的に有名になった「さっぽろ雪まつり」をはじめとして、道内各地で冬まつり、流氷まつり行われます。

 

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