標高1131mの駒ケ岳と大沼、駒ケ岳の噴火で流れ出た泥流や岩石が折戸川をふさぎ水がせき止められて出来た湖で、周囲24㎞水深13.6m81個の島が有る大沼です。
モデルコースA
1日目 小樽駅or小樽市内ホテルor小樽港フェリーターミナル~赤井川村キロロリゾート~余市ニッカウィスキー~札幌市内宿泊
2日目 札幌~ルスツリゾート~洞爺湖昭和新山~大沼~函館市内観光夕食~函館山夜景観光~函館市内宿泊
3日目 函館~函館市内観光~函館空港or函館駅
(有料道路利用料金 駐車場料金 施設体験見学使用料金等含まれておりません)
トラピスチヌ修道院、トラピスチヌとは女子のことで、男子の修道院はトラピストです。
トラピスチヌ修道院は明治31年、ローマカトリック・シトー会の、8人のフランス人修道女によって創設された、日本初の女子修道院で、正しくは、「天使の聖母トラピスチヌ修道院」といいます。
このシトー会という組織は、宗教活動をするためのものではなく、[生活のすべてを神に捧げ、祈りと労働の日々を過ごすことで神と人々に奉仕する]ことを目的にしています。
ですから、その戒律も厳しく、貞潔(操が固く、行いが潔白)清貧(行いが清らかで、貧しい生活にも満足)従順(素直)の3つの誓い(3誓願)のもとに、修道女たちが信仰生活をしています。
毎日3時半起床、お祈り、読書、ミサのあと食事、8時過ぎから労働を始めます。
50haの敷地では畑作、牧畜などの作業を行い、バター飴、クッキー作りに精を出しております。
また、冬はペンダントや手芸品などを作ります。
夜、床に就くのは19時45分、これが修道女たちの静かで落ち着いた日課です。
この修道院には、誰でも入れるわけではありません。
カトリック信者であることはもちろん、洗礼を受けてから、3年以上たった未婚の女性、年齢は普通23歳~30歳位まで、両親の承諾と教会の推薦があることなどが、条件になっています。
いずれにしましても、修道女になるには、人柄はもとより、正しい心と強い意志が必要で、ただ単に失恋したからとか、生活に疲れたからという理由だけでは、生涯をここで暮らすことは出来ません。
(静かなる 青き 一日の 暮れゆきて 聞くはよろしき アンジェラスの鐘)と歌人の与謝野晶子はうたっております。
なお、ここで自給自足できるもの以外、生計はすべて修道女たちが作る、お菓子や手芸品などの収入でまかなわれています。
写真は函館山の昼間の景色と、2006年(平成18年)完成の避雷針まで107m建物本体98m展望2階床面高さ90mの五稜郭タワーです。
左の写真は登別温泉地獄谷、大昔の爆裂火口の跡といわれ、温泉の湯元であり、登別の観光名所ともなっております。
大地獄、鉄砲地獄、奥地獄などと名付けられた噴気孔が点在し、硫黄の匂いに満ちた谷底からは、ガス(硫化水素ガス)や熱湯が噴出し、いかにも地獄の名にふさわしい所です。
右の写真は世紀の奇蹟、昭和新山、昭和18年暮れもおしせっまった12月28日、このあたりは、激しい地震に襲われました。
有珠山が明治43年の爆発以来、33年ぶりに活動をはじめたのです。
この地震とともにはじまったのが、土地の隆起でした。
50数件の家と広い麦畑が、毎日少しづつ盛り上がり、翌年の5月には、50mほどの丘になってしまいました。
そして6月23日、この麦畑の丘が、遂に大爆発を起こしました。
爆発は10月まで17回もつづき、とくに、爆発の激しかった時には、岩石が1㎞四方にも飛び散り、幸い、死傷者はありませんでしたが、裾のいったいの人々は恐怖の毎日でした。
この爆発の間も土地の隆起はつづき、12月上旬、白煙をあげる火口の中央から、遂に、真っ赤な熔岩塔が、ゆっくりと地上に押し上がって来ました。
そして、それは1日に1mから1m半の速さで盛り上がり、昭和20年9月、ピタリと活動を停止した時には、周囲4.6㎞、標高406.9mの火山になっていたのです。
その期間わずか1年9か月の出来事でした。
かざんは、そのできかたや、形によって色々分類されますが、この昭和新山のように、熔岩だけが固まって出来た山は、現在、世界でも例がなく、昭和32年、国の特別天然記念物に指定されております。
モデルコースB
1日目 新千歳空港~白老ポロトコタン~登別温泉宿泊
2日目 登別~洞爺湖昭和新山~大沼~函館市内観光夕食~函館山夜景観光~函館市内宿泊
3日目 函館~ニセコ~余市ニッカウィスキー工場~キロロリゾート~小樽市内宿泊
4日目 小樽~小樽市内観光~小樽駅or小樽港フェリーターミナル
(有料道路利用料金 駐車場料金 施設体験見学使用料金等含まれておりません)
白老町アイヌ民族博物館白老ポロトコタンとチセ(家)白老アイヌコタンは、アイヌの人達の生活や、文化を広く知っていただけるよう、家(チセ)祭壇(ヌサ)墓標などを再現しています。
コタンは「集落」とか「村」の意味ですが、入口には、旅人の安全を祈る高さ16mの大きな村長の像が建っています。
コタンの中にある「アイヌ民族博物館」には、代々伝わる宝物や、生活用具など1300点あまりが展示されています。
ニッカウィスキー余市工場、日本初のウィスキーは昭和4年寿屋(現サントリーウィスキー)で竹鶴氏らによって作りだされました。
その後三方が山にかこまれ、一方は海、余市川の清流やピート(泥炭)があり1年を通しての温度、湿度が、スコッチウィスキーの本場スコットランドとそっくりだった所から、かねてから目を付けていた余市に工場を建てたのがニッカウィスキーのはじまりです。
昭和9年リンゴジュースを作りながらウィスキーの熟成を待ち昭和15年ニッカウィスキーを送り出しています。
社名の由来はリンゴジュースを作っていた時の大日本果汁株式会社の日本のニチと果汁のカをとってニッカウィスキー株式会社となりました。
ニセコ町、「スキーのメッカ」として、全国に知られておりますが、町の名がカタカナというのも珍しく、滋賀県マキノ町と、ここの2か所だけです。
また、同じようにカタカナを使ったJRの駅は、このニセコ、マキノの他に、北海道にあるトマム駅があります。
稲作や馬鈴薯、ビートなどの農業が中心で、酪農もさかんな所です。
ちなみに、ひらがなは北海道にえりも町があり、他に、むつ市(青森県)いわき市(福島県)えびの市(宮崎県)などです。
上の写真はニセコ、ラフティング尻別川で行いますがスリル満点で楽しいです。
その下の写真はJRニセコ駅前のハロウィーンの風景です。山の写真は標高1308mのニセコ連峰の主峰ニセコアンヌプリです。
となりが道の駅ニセコです。
赤井川村、四方を山々に囲まれた「カルデラ」状の地形をなしています。
気象条件は盆地特有の内陸型気候で、冬の積雪は多く、北海道内で有数の豪雪地帯です。
市街地でも最大170㎝にもなります。
上の写真は「大雪」を利用した「キロロリゾート」です。
夏は気温が上がりますが、昼夜の寒暖の差が大きく、果菜類の栽培に適しています。
赤井川村では農業が盛んで、中でもメロンやスイカは甘くて美味しいと評判です。赤井川村の主産業は、農業と観光業です。
農産品の品目は多岐にわたり、北海道で栽培できる農産物は何でも出来るといわれています。
作付面積が多い品目は、米、馬鈴薯、南瓜、スイートコーンなどです。現在は、冬期間のウィンタースポーツだけでなく、ゴルフやテニスをはじめ、パークゴルフなど夏期の観光客もふえています。
また、平成3年にはスキー場を中心としたキロロリゾートがオープンし、観光・サービス業の就労者も増加しています。赤井川村はアイヌ語「フレ・ぺツ」(赤い川)を意味したものです。上の写真は美味しいソフトクリームで有名な山中牧場です。その下の写真は道の駅赤井川です。