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四季彩の丘の写真です。【美瑛町フリープラン観光ツアーコース】
北海道観光貸切個人タクシー高橋の美瑛町・四季彩の丘の写真です。
今日の四季彩の丘です。広さ15ヘクタールの広大なお花畑とても綺麗です。トラクターバスで園内一周最高です。
ラベンダー
ラベンダーはなぜこうも人を引き付けるのでしょうか。それぞれこの花との出会いには思い出をお持ちのことでしょう。通りすがりの道端で、人様のお庭で、グラビア雑誌のページをめくったときに、テレビの画面で、カレンダーをめくったときに、人から贈られたラベンダーの花束で始めて知った香りの印象など、人それぞれにこの花との出会いには強烈なものがあり、まるで永遠の恋人にでも逢った時の、感動に近い喜びといったところではないでしょうか。
この花が出す「フェロモン」が、誰にでも好かれる香りなのかも知れません。ラベンダーの花言葉は「疑惑」で、ちっと近づきがたい感じもしますが、数あるハーブの中で、この花は「ハーブの女王」と伝われており、他の花にはない気品が備わっているようです。生花があればバンドルズを楽しみ、一番手軽なのがドライフラワーにして楽しみ、乾燥した花を砕いてポプリにしたり、ガーゼに包んで湯舟に浮かべ、香りを楽しみ疲れを癒し、気分を落ち着かせる効果は抜群なのです。
収穫するのは開花直前が良く、蕾が色づいたころが最良で、香りも高く、ドライフラワーにしても、いつまでも花の色彩がよろしいようです。
日光を好み、乾燥気味なのが好きなので、水やりは土の表面が乾いていても、2日~3日持つようにするといいようです。植える時は密集させない事がコツだそうで、一本の苗でもすぐ沢山枝分かれして、こんもりとしてきます。
ラベンダーはスイスに源を発し、栽培は南フランスのプロバンス地方が主です。
ラベンダーはハッカと同じくシソ科の多年草性植物、60㎝ほどに成長します。
学名は①「ラヴァンデュラ」(昭和53年・7月の道新参考)、
②ラフィンドゥラ・アングスティフォリア(伊藤真希子さんの道新の記事参考)と二つの説が見つかりました。ラベンダーという名は「洗う」という意味のラテン語からきています。
独特な爽やかな香りは古くから知られ、ヨーロッパでは香料として愛用され、すでにギリシャ・ローマ時代には大浴場のお湯の香りづけに使われていたようです。今で言う入浴剤であり、鎮静作用がある事も知られており、アロマテラピーの先駆けであったようです。16世紀ごろから香料の原料として使われ始め、イギリスではエリザベス1世の時代に、王室で人気があったとも伝えられています。
春には田畑を起こし、種子や苗を植え、夏には炎天下での草取り作業をして、それまでの苦労は秋の収穫に報われるという農業は、一年に一度の収穫を春から秋までひたすら待ちわびる気の長い作業なのです。
この風景は農家の人達が長い年月をかけて自然と戦いながら、苦労して作り上げたものなのです。
そして農作物は手を掛けてやらなければ育ちません。
手入れをしなければこの風景はありません。
かつてジャガイモだけを毎年植え続けました。
ところが病気が発生したのです。
そこで考えました。
翌年は大豆を、そして翌年は麦、次の年はビートと同じ畑に同じ作物を作ることを止めた事で、作物の病気が抑えられました。
いわゆる、連作を止め、輪作に変えたとき、このパッチワークの畑が生まれたのです。
同じ畑の風景は翌年、見る事は出来ません。
農家の方の自然を、土を、作物を相手にしてこそ生まれた知恵が、こんな素晴らしい情景を生み出したのです。
感謝こそすれ、それを都会のうっぷんばらしに踏みつけられては、農家の方の気持ちは治りません。
農家の方の心意気と、私達の口に入る食料を生産している食料基地、いわゆる聖地に来ているという認識のもとに、畑に入ったり、ゴミなど落とすことなく、お過ごしください。
美瑛町の概要
上川支庁管内美瑛町は、人口約1万人で、農業を基幹産業とする純農村地帯です。
人口のピーク時には約2万2千人までになりましたが、高度成長期を迎えた日本の経済が、若者を都会へと引き寄せた結果、後継者問題が農家を離農に追い込み、また、農産物の自由貿易は農村を直撃、お米の減反と、みるみる農村人口は減少の一途を辿ってまいりました。
ところが写真家・前田真三氏の写真が発表されたことから、美瑛町の丘は全国から注目を浴び、今では世界三大丘陵の一つに数えられ、CMや映画、テレビドラマの撮影で一躍有名になりました。
もともと大雪山国立公園に位置する十勝岳を始めとする十勝山系、その麓の白金温泉を有する観光の町の顔を持っていました。
しかし、ここに至ってまさか、農村風景が観光として注目されるなど誰が考えたでしょうか。
農業地帯は農業者の生活の場所であり、苦労と努力の結果が農作物の生産に結び付き、丘の風景、いわゆるパッチワークの風景が出来るまでは、自然や大地と向き合って戦い続けた結果でした。
美瑛町は北緯43度、東経142度と北海道のほぼ中央に位置し、大雪山国立公園十勝岳連峰の麓に広がる大丘陵地帯で、町の総面積は約677平方km、琵琶湖とほぼ同じ面積で、東京23区(約616平方km)よりやや広く、山林が7割を占めております。
気候は十勝の山の麓に位置することから、夏暑く冬厳冬という大陸性気候です。
(南フランスのマルセイユ、北アメリカのボストン、シカゴとほぼ同緯度、ロンドンやパリより遙かに南に位置するが、これらの地より温暖とはいえない)
交通の便も良く、旭川空港から車で10分位のところで、JR富良野線や国道237号線が通っており、交通の要所でもあります。
美瑛とはアイヌ語で「ピイェ」から転訛したもので、「油ぎった川、濁った川」の意味で開拓者が「ビエイ」と訛って読み、「美しく、明朗で王者の如し」から「美瑛」の漢字があてられたということです。
農業の町として歩み続けて参りました美瑛町は、平地では水田、丘陵地では畑作物が中心で、耕地面積は約1万2700ha、現在、畑作物の生産が9割を占めております。
畑作物はジャガイモ、麦類、豆類(小豆が多い)、ビートをはじめ、カボチャ、タマネギ、トウモロコシ、アスパラガスなどの生産をしています。
中でもジャガイモは「カルビーのポテトチップス」の原料となって、全国のお店で販売されております。
この町の歴史は、明治27年9月、兵庫県出身・小林直三郎氏が雇人3人を伴って辺別太(現在の旭地区)に入植し、旭農場を開設したのに始まります。
農場主であった小林直三郎氏の日記には、「芒々たる草原、古来かつて斧の跡なき鬱蒼たる森林」と記されていたそうで、昼なお暗い大原生林に踏み分け入った最初の人ならばこそ、書き記す言葉に実感が込められているのがわかります。
それに続いて原野と呼ばれた美瑛川流域にも幾つもの農場が開かれ、徐々に美瑛の町は形成されていきました。
そして早くも明治32年9月には、富良野線が美瑛まで開通しています。
大正15年、十勝岳大爆発によって死者行方不明者7名を出し、隣り町の上富良野町では137名、合わせて144名の犠牲者を出す大惨事となりました。
それよりさかのぼりますが、明治40年、陸軍第7師団演習場が美瑛に設定され、現在のパノラマロード一帯が戦前、戦中まで、軍の演習場であったところです。
一面すずらんの花咲く大原野であったと懐かしむ住人もおいでになりますが、昭和20年戦後を迎え、満州(中国)、千島、樺太、(サハリン)からの引上げ者に開放され、新たな生活の場として開墾され、昭和25年2400戸を超す勢いでした。
現在「丘のある風景」などと知名度が高くなり、観光客が押し寄せるほどの見事な農業地帯になるまでは、口で言い表すことの出来ない苦労の連続だったと言います。
また、十勝岳の山麓には明治43年に開業した温泉がありましたが、大正15年の十勝岳の爆発で泥流に埋まってしまい、跡形もなくなりました。
昭和25年に温泉の掘削を試みたところ成功し、「この湯はまさに地底から湧いたプラチナ(白金)とも云うべき尊いもの」と、時の町長・鴻上覚一氏の言葉から、「白金温泉」と命名したそうです。
豊かな水と豊かな大地、豊かな人の心が一つになって、此れからも美しく明朗で王者の如く、この町が輝いてくれることでしょう。