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北海道『小樽運河周辺』です。【北海道小樽観光貸切送迎タクシー高橋】
北海道『小樽運河周辺』観光案内です。【北海道小樽観光貸切送迎タクシー・ジャンボタクシー高橋】
北海道の代表的な観光港町小樽
明治、大正、昭和の初めまで北海道の商業の中心都市として、栄華を誇っておりました小樽の街は今、当時のアンティークな建物を再利用した観光の街として、日々観光客で賑わっております。
今から30数年前、港小樽を代表する「運河埋め立て問題」が起こり、埋め立てか?保存か?両論が真向から対立し、
小樽市議会で大きく取り上げられ、しかし中々結論はでませんでした。
そこに結成されたのが小樽運河保存会で、会の人々は入り船出船で大いに沸き立った小樽の歴史を埋もれさせてはならない、小樽っ子の思い出の運河を何としても残そういう必死の守りを続けた事が、多くの賛同者や理解者を得ることができ、今日に至ったのです。
もし、あの時、そのまま車道にするため埋め立てていたら?今日の小樽の観光はあったでしょうか。
30数年の歳月は最良の結論を生み出しました。
運河の幅は40m、その半分を埋め立てて、残り半分を運河のままに残そうという事でした。
運河南側は昭和61年3月に散策路が設けられ、北側も当初の一部埋め立てを全面的に中止し、そのまま残すこととなり、平成2年1月南側に次いで散策路が設けられ、ガス灯が運河を照らしております。
小樽市は運河沿いの石倉庫群と合わせ、かつてウォール街といわれた旧日銀小樽支店等のある所を景観地区に指定し、民間企業の様々な事業努力が古いたたずまいの建物を利用して、現在のニーズにあった事業展開をすすめ、ここ数年の観光ブームとあいまって小樽への観光客は年間約700万人までになっております。
観光で今流行しているウォーターフロント「水際」、小樽は正にウォーターフロントそのもので、大都市札幌からわずか1時間の所に位置し、地の利の良さも手伝って「観光北海道」のブームもここまでかと思われている中、魅力あるアンティークな街並みは、訪れる者に安らぎと古き良き時代を偲ぶことの出来る懐かしさを与えてくらるところとして、多くの観光客が訪れております。
近代小樽港の発展
埋め立ての拡大と埋め立て式運河(小樽運河)の建設
小樽港は天然の良港といえども山が迫っており、海岸に平坦な土地はほとんどありませんでした。
そのため、荷物の積み降ろしを容易にし、荷物を保管する倉庫などを建てるために、海陸連絡の設備として埋め立てが積極的行われました。
明治22年(1889年)までに勝納川から手宮桟橋に至る海岸で水深の浅いところを中心に、民間によっておよそ11万㎡の埋め立て地が出来ていました。
そして、防波堤建設が決まり小樽港が北海道を代表する港として位置づけられたことにより、以前にも増して各個人や企業が条件の良い所の埋め立てを願い出るようになりました。
しかし、設計変更が繰り返され、資金難などもあり着工は大幅に遅れます。
防波堤の建設が進む一方で、港を活用するために必要な施設の建設はなかなか進まなかったのです。
明治42年(1909年)、欧米視察から帰国した広井勇は、取扱貨物の種類、荷造り方法などから、さしあたって埠頭式によって、大型の船が直接岸壁に接岸するよりも、運河式によって艀を利用する方が便利であるとの意見を出しました。
そのこともあり、当初の埠頭岸壁式から埋め立て運河方式へ設計変更がなされ、速成派、延期派、埠頭派など意見が対立しました。
さらに2回目の設計変更がなされ、着工まで時間がかかることとなりました。
検討が始まってから実に18年も経過した大正3年(1914年)になり、埋め立て運河方式で着工することになりました。
埋め立て地の造成と運河の建設は、小樽区(市)営第一期修築工事として、およそ10年ほどかかり、大正12年(1923年)に完成します。
手宮川から立岩に至る沿岸距離1455mの水面部分が埋め立てられ、長さ1324m、幅40m、水深2m40cmの埋め立て式の小樽運河が建設されたのです。
この運河岸壁には、100トン積みの艀40隻が同時に係留でき、小樽運河周辺の埋め立て地約10万8千㎡には倉庫が建ち並ぶこととなりました。
小樽運河
大正3年~大正12年、約10年掛けて埋め立て完成しました。
完成当時は長さ1324m幅40mでしたが道路を造るのに埋め立てられて現在は長さ1140m幅20mです。
港のさらなる発展をめざした埠頭の建設
北海道の開拓が進み、産業の復興は小樽港の整備を待ってはくれませんでした。
運河が完成した大正12年(1923年)の翌年大正13年(1924年)には、入港船舶隻数は6248隻を数え、取扱貨物量は250トンを数えました。
その結果、貨物の積み降ろし、燃料の石炭の搬入、蒸気機関のボイラー用水や、飲料・生活水の供給を全て艀で行うことは効率が悪く、増大する船舶量に応えることが難しくなってきました。
また、艀による荷役は天候に左右されるので、改めて埠頭岸壁式の港づくりが求められました。
小樽運河が完成した大正12年(1923年)、増大する貨物量に対応するために、埠頭を建設することの許可申請がなされています。
その後、昭和2年(1927年)から、の北海道第二期拓殖計画の中で、小樽港の岸壁・埠頭施設の整備が盛り込まれ、北海道初の突堤式の公共埠頭が建設されることとなりました。
昭和7年(1932年)、立岩から勝納川に至る約1310mの海岸埋め立てが竣工します。
そして、延長352m、水深6.6mの堺町岸壁が完成しました。
続いて、昭和9年(1934年)には延長212m、水深7.4mの厩岸壁が完成します。
厩町の埋め立てでは岸壁以外の施設が築造されたほか、小樽港で待望された船舶修理場などの施設も設備されました。
堺町、厩町の両岸壁が完成したことで、2000トン~3000トン級の船舶が直接接岸できるようになり、樺太航路などで利用されました。
昭和10年(1935年)には突堤式の第一号埠頭の建設が始まります。
1万トン級の船舶と、6000トン級の船舶が係船できるバース(船舶係留場所)が設けられました。
埠頭の面積はおよそ3万8000㎡。
幅員127m、長さ右310m、左293mで、総工費はおよそ99万円でした。
昭和12年(1937年)には、第二号埠頭が、昭和15年(1943年)には第三号埠頭の建設が始まりましたが、第二次世界大戦の影響で昭和18年(1943年)までに工事は打ち切られました。
大正11年(1922年)には、小樽港から運び出される石炭は年間百万トンを超えるようになり、手宮駅構内の既存施設からでは石炭の積出が間にあわなくなってきました。
大正15年(1926年)、鉄道省は小樽港の海陸連絡設備の根本方針と具体案を決定しました。
それは、勝納川、若竹町の埋め立てを進め、貯炭場、貯木場を建設するほか、岸壁を整備すると共に、長さ170m、幅18m、水深8.5mの石炭船積み桟橋を建設する計画で、7000トン級の船舶を係留して荷役を行うことで、石炭を年間365万t、木材を28万t、雑貨4万6千tを扱うというものでした。
工事は昭和2年(1927年)に始まり、昭和11年(1936年)に東洋一といわれた近代的な石炭荷役施設が完成しました。
ペットボトルにも入って売られている小樽の水です。冷たくて美味しい😋😋(^_^)vよ
北海道の方言
北海道の方言の成り立ち
北海道の方言には歴史的背景から、「海岸部方言」と「内陸部方言」に大きく分けることができます。
北海道に和人が初めて渡って来たには鎌倉時代初期からで、開発が始まったのは室町時代末期からといわれています。
蝦夷地での豊富な魚介類と交易を目的に松前町付近を中心に移住してきました。
移住者は当初、おもに下北、津軽半島の漁民でしたが造船技術の進歩により大型木船が造られるようになると秋田、山形、新潟、富山、石川、福井からも来道するようになりました。
移住し家は漁場を求めて海岸線沿いに定住していきました。
このことから「海岸部方言」はおもに東北地方出身者によって形成され、北海道の方言の基盤になりました。
一方、内陸部の開発にかかったのは明治2年(1869年)、開拓使が置かれてからです。
開拓使の拓殖計画により、本州各県から移住民が大挙して来道しました。これは北海道の防備と本州の生活困窮者救済、開墾が目的でした。
海岸部は数百年の間に徐々に開拓されましたが、内陸部はわずか数十年の間に急速に開拓されました。また、移住者の多くは農民や士族であったことや出身地が全国におよんでいたこともあり、海岸部とは異なることばが使われていました。
同郷人の多い所では出身地のことばが使われていましたが、入植者が増え出身地が混じったところではことばが通じなかったため、意思の疎通ができることばを求め合い「共通語」化され、残ったことばが「内陸部方言」となりました。
出身地の方言を捨て去る言語生活の積み重ねで、内陸の方言は形成されていきました。
小樽の方言
このように海岸部方言と内陸部方言では歴史的背景に違いがあります。
海岸部方言は道南を中心に日本海側、太平洋側、オホーツク海側の海岸部で使われているほうげんです。
さらに分類すると松前郡一帯の「松前方言」と松前を除く渡島、桧山、後志地方の「道南方言」、道南以外の「道東、道北、オホーツク沿岸方言」に分けることができます。
小樽は「道南方言」に属していますが、その色彩は薄まりつつある地域といえます。
発音のおもな特徴
「し」「す」「ち」と「つ」「じ」「ず」の区別がつきにくい。
〈例〉すす(寿司、獅子)、つつ(土、父、乳)、つず(知事、地図)
「い」と「え」が混同している。
〈例〉えだ(板、枝)、えぎ(息、駅)
「へ」と「せ」が混同している。
〈例〉へなか(背中)、かせる、かへる、(食わせる)
ことばの特徴
「べ」で二つの意味を表す。
〈例〉行くべ(行こう、行くだろう)
「ない」にあたるところは「ね」になる。
〈例〉見ね(見ない)、知らね(知らない)
助詞「に」「へ」「を」が「さ」になる。
〈例〉船さ乗る(船に乗る)、店さ寄る(店に寄る)
小樽でよく耳にするおもな方言
いやいや(やいや)
あいずちに使います。「まあまあ」などあいまいな感じ。
いずい
痛痒いこと。我慢できないほどではんくぁいが痛痒い状態。
おがる
おもに植物が成長したときに使うが、こどもが成長したときにも使うことがある。
おばんでした
こんばんは。なぜか過去形です。
がおる
疲れ果てて死にそうになる。疲れるの最上級。
がさい(がっさ)
物の状態が悪いこと。ダサイに似ている。
かっぱがす
ひっくりかえす。
きかない
勝気なこと。気丈。
しゃっこい
冷たい。
ちょす
触る、いじる、ちょっかいを出す、からかう。
つっぺ
栓をする。「つっぺかう」(栓をしてふさぐ)
はかいく
はかどる、作業が進む。
まかす
撒き散らかすこと。
まぶい
美しい、かっこいい。
ゆるくない
つらい、難しい、大変。
此れを覚えて、あなたも小樽人になりましょう。!!
方言は文化遺産
北海道の方言は、特に後志以南の海岸部の方言はいわゆる「浜ことば」といわれ、田舎の人の使う「悪いことば」だと思っている人が多いのですが、これは間違った考え方です。
ことばには地理的分布があり、分布範囲の広いことばが通用範囲も広く共通語となりました。
方言は、その範囲が狭く地域に残って行きましたが、その方言は自分が作ったことばではなく、親またその親から伝承された地域の貴重な文化遺産なのです。
方言には由緒ある古語が使われていたり、標準語では表せない感情や状態、深みを表現できる魅力あることばです。
方言の語源を探ると、もっと街の魅力を発見することができるかもしれません。
小樽出抜小路です。
第一埠頭、大同倉庫で~す。船がいないのが残念です。
港で働いた人
さて、小樽港ではどのような人達が働いていたのでしょうか。
港で働く人は、小樽港に出入りする船舶の船員だけではありません。
船舶への荷物の積み降ろし、岸壁から倉庫や貨車、トラックに運び込むという仕事があります。
小樽港は最初、運河方式を採用したので船舶~艀~岸壁~倉庫や鉄道という過程を経ることとなりました。
石炭だけではなく農産物、林産品、生活物資や工業製品の積み降ろしがありました。
このためさまざまな荷姿があり、機械化が進むまでは職人的な熟練した技能を持った労働者が数多く必要でした。
第二次世界大戦前の小樽における港湾労働者の職種は、「仲仕:港に停泊している船舶内で積み降ろしに従事」「艀船夫:艀によって貨物の運搬に従事」「陸方:貨物の揚陸や艀へ積み込みに従事」「倉人夫:倉庫への貨物の積み付けや荷造り手直しなどに従事「木材積取人夫:木材の積取に従事」「通船船夫:通船によって旅客や船員の輸送に従事」「赤帽:船客送迎その他に従事する陸上雑役夫」「台車荷降ろし人夫:鉄道駅構内で貨物積み降ろしに従事する」に大別されます。
また、雇用の形態は「定夫」とよばれる常傭と、「出面」「ゴモ」と呼ばれる日雇いがありました。
職種、雇用形態別にそれぞれ独特の技能が必要で、身分や生活条件、慣行などが異なり、同じ荷役でも雑貨と石炭でも大きく異なっていました。
さらに、木材積取人夫は独特な生活をしていました。
此方は第二埠頭です。
「ゴモ」
日雇いの港湾労働者を「ゴモ」というのは小樽港がはじまりといわれております。
カモメの事を北海道では「ゴメ」といいますが、それがなまった、賃金のことなどでごねてゴモゴモいうからゴモといわれるようになった、などといくつかの説があります。
このような独特の言葉を生み出した港の労働ですが、夏の暑さはもとより、冬の凍てつく寒さの中で大変な苦労がありました。
多くの人達の苦汁が小樽港の荷役を支え、小樽港の発展に関わっていたことを忘れてはならないと思います。
此方は第三埠頭です。
小樽海上観光船あおばとです。後ろの方に屋形船かいようです。
右側赤いマストは小樽のタグボート、たていわ丸です。
此方は昔の運河の幅40mの北運河で~す。北海製缶小樽工場も見えています。
小樽の歴史について
小樽が観光地として脚光を浴びた大きな切っ掛けは、何と云っても運河問題が、全国版になって大きく報道されたことです。
町を二分する大論争が何年にもわたって続くと云うことは、「それほど大論争をする価値があるのか」という大きな関心を呼ぶ事になり、その結果、小樽の近代経済史に残る、数々の歴史的建造物等が見直されるようになったからです。
明治、大正はまさに日本歴史の中でも数少ない大変革期であり、その経済的政策は、多くが北海道に向けられました。
その中心にいたのが小樽で小樽港の防波堤を見ただけでもその力の入れようが解ります。
幸か不幸か戦後の小樽の衰退が日本の高度経済成長にとり残さた存在だったために、大半の遺産が手をつけられないまま残されました。
小樽はまさに北海道の開拓博物館と云ってもいいのではないでしょうか。
現在の小樽は古いこれらの遺産と、まったく新しい商業施設が混在し、町の経済的構造は一変しておりますが、先人が築いた数多くの遺産の中に小樽市民は生きております。
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