北海道観光個人タクシー高橋の伊達市 史跡北黄金貝塚『世界遺産』北東北の縄文遺跡群です。


世界遺産・史跡北黄金貝塚
北海道伊達市北黄金町に有る、史跡北黄金貝塚へ行って来ました。

縄文の丘 北黄金貝塚

世界遺産・国指定史跡北黄金貝塚は、有数の貝塚分布地帯として知られる噴火湾の東岸にあります。

縄文時代前期(約5000~6000年前)の台地上の貝塚と低地の水場遺構を中心とした集落遺跡です。

指定面積の87539.88㎡の中には貝塚のほか、住居跡や墓、鹿用落とし穴、盛土遺構、水場の祭祀場が発見されています。

貝塚は5箇所あり、その移り変わりは縄文時代に起こった海岸線の移動と一致します。

また、最も大きなA地点貝塚は平面の大きさが80m×30m、厚さが0.8mあり、カキやウニの層にオットセイなどの海獣類の骨が数多く含まれています。

貝塚の中をのぞいてみると縄文人が何を食べたのか、どのように獲物を捕ったのかなどの、彼らのくらしぶりが見えてきます。

自然を活かし、自然とともに

貝塚の中にある食べ物やそれらをとった道具を見ると、縄文人が自然の中で自然の中で自然を活かして生活していたことがわかります。

縄文人はつねに自然を畏れ、自然に感謝する生活を忘れず、自然の中の一員であり続けるという考え方を持っていたのでしょう。

だからこそ縄文文化は1万年もの長い間、続くことができたのです。

海はこんなに近かった

約6000年前は今よりも暖かく、海は北黄金貝塚の丘の裾まできていました。

その後、少しずつ気候が寒くなると海は丘から離れていきます。

すると、縄文人は住居を海の近くへ移し、そこで貝塚をつくりました。

海の幸と山の幸の両方を得られる便利な場所を選んでいたのです。

縄文人の手仕事

遺跡からは、縄文人の手仕事がわかるものがたくさん出てきます。

縫い針からは衣服をつくったり、刺繍をしている女性の姿が思い浮かびます。

つくりかけで捨てられた道具からはつくり方の順序を知ることができます。

また、道具をつくるための道具もあり、まるで縄文人の道具箱を見ているようです。

貝塚はゴミ捨て場ではなかった

貝塚の中や下からは人の墓が見つかっています。

これまでに縄文前期の人骨14体が発見されました。

縄文人が「貝塚はすべての生き物の墓地」と考えていたことがわかったのは、アイヌの人たちが同じような考え方を持っていることが参考になりました。

縄文人の考え方をアイヌの人たちは受け継いでいたのです。

すべての生き物の墓地

貝塚の中からは貝殻や動物の骨などと一緒に、ていねいに葬られた人の墓が出ています。

このことは、貝や魚、シカ、オットセイなどはゴミとして扱われたのではなく、命あるものとして、人と同様に供養されたを物語っているのです。

さらに、木の実の殻や囲炉裏で燃やされて灰になった木などの植物も供養されました。

貝塚はすべての生き物の墓地であり、感謝と祈りをささげる場所だったのです。

縄文人の墓

墓を発掘すると、人骨は手足を曲げた状態で出てきます。

これは「屈葬」と呼ばれる埋葬の姿勢で、向きは横向きと仰向けの場合が多くみられます。

墓の上には、土器や台にする石(石皿)が供えられています。

手足を折り曲げ、重たい石皿を供えたのは悪い霊としてよみがえらないようにとの願いを込めたからでしょう。

北海道の人のルーツ

北黄金貝塚で発掘された14体の人骨は、北海道で今まで見つかっている中で、最も古いものです。

そして、古人骨研究には欠かせない基本資料なのです。

これらも含めて、北海道の縄文人から近世アイヌ人までの人骨を調べると、各時代の人骨も縄文人の特徴をほとんど変えずに受け継いでいることがわかったのです。

すべてのものに命があった

低地の湧き水付近では、約200㎡の発掘区の中に1209点もの礫石器が供養された、縄文前期の水場の祭祀場が見つかっています。

また、縄文中期(約4000年~5000年前)の水汲み用の足場跡も発見されており、集落が移動しても水場は約2000年間常に使われたことがわかっています。

水場で供養された石の道具

石でできた道具は使わなくなると、わざと水場で壊されました。

壊すことで完全に「あの世」へ送られるのです。

そして、底を打ち抜いた土器や刻みをつけた特別な石を供えるなどの儀式を行い、道具への感謝と再生を祈ったのです。

水場を供養の場としたのは、水が生まれる神聖な場所であることと、材料となる石がとれる「道具の生まれた場所」だったからだと考えられます。

竪穴住居

発掘調査で竪穴住居の跡が見つかった場所の真上に、3棟の建物を復元しています。

この3棟の住居は、貝塚よりも新しい縄文時代中期(約4000年前)のものです。

貝塚と同じ時期の住居は復元はされていませんが、丘の上の貝塚に近い場所で見つかっています。

縄文の森

北黄金貝塚の史跡公園としてのオープンにあわせて市民の皆さんと一緒に植樹をして出来た場所が、この「縄文の森」です。

最初の植樹はいまから約20年前に行われ、小さな苗木が今では立派な森に成長しました。

森にある木の種類は、縄文時代の温暖な時期に多かったクルミやブナ、カシワなどの落葉広葉樹です。

今は史跡公園として広々とした草地になっている北黄金貝塚ですが、縄文時代にはこのような森に覆われた中で人々が生活していたと考えられます。

史跡北黄金貝塚公園 北黄金貝塚情報センター

縄文時代のユニークさ

農耕をせずに採集・漁撈・狩猟を生活の基盤としながら定住が可能だった背景には、この土地が豊かな海や山の自然の恵みに囲まれていたためです。

そして、今も私たちにその恵みを与え続けてくれています。

伊達市内で今も食べられる海産物は、縄文時代から受け継いだものもあります。

史跡に隣接する情報センターでは、縄文時代に生きた人々の暮らしがわかる展示があります。

開園期間:4月1日~11月30日(期間中は無休)

開館時間:9時~17時(入館無料)

交通:JR黄金駅から道南バスで「北黄金貝塚公園前」バス停下車、徒歩5分

   JR伊達紋別駅からバス「室蘭港」行き約20分、「北黄金貝塚公園前」バス停下車、徒歩5分

   伊達市街地から車で室蘭方面へ14分(約7㎞)

史跡北黄金貝塚公園 北黄金貝塚情報センター 〒059-0272 北海道伊達市北黄金町75 

TEL/FAX (0142)24-2122

※開園期間・開園時間など変更になっている可能性あります。要確認お願い致します。

「縄文時代」とは

1万2千年も続いた穏やかな時代。

豊かな精神性の芽生えと成熟。

北黄金貝塚は、縄文時代に人々が暮らした跡が見られる史跡です。

縄文時代とは、今から約15000年から2500年前の日本列島に存在した文化です。

その特徴は、それ以前の旧石器時代のような移動生活はしないで、決まった集落(ムラ)に住みながら、他の新石器文化のような農耕や牧畜はせず、狩猟と漁撈、採集を生活の基盤にしていたということです。

この縄文文化は、定住したことで人々の知識が蓄積されることを可能にし、土器づくりに代表される豊かな造形美を生み出しました。

それと同時に、「自然の中の一員として生きる」という理想が表れた文化でもあります。

つまり、世界的に見ても現代的な課題になっている、「自然と文化の調和」を実現した社会だったことが注目されています。

狩猟・採集を基盤としながら安定した定住を実現した持続可能な社会

縄文時代の社会は「自然と文化の調和」がなされていたといあわれていますが、言い換えると、「自然を壊すことは必要最小限に抑え、自分たちの生活を維持しつつ、文化を成熟させた」ということです。

例えば、貝塚の中からは、動物の魂を慰めた儀式の跡が見つかります。

この動物儀礼の意味は、食料を得るために動物を捕ることはあっても、決して捕りすぎないように自らを規制するための社会的なシステムとも考えられています。

この他にも、ストーンサークルや墓などからも当時の狩猟採集民の思想が読み取れます。

また、貝塚や低湿地の遺跡からは10000万年以上続いた縄文時代の環境の変化を示す証拠が数多く見つかっています。

貝塚中の貝と魚の種類や、低湿地遺跡で出土する木材と花粉の分析から、寒暖・乾湿といった陸地の気候と、暖流と寒流といった海洋環境の変化もわかります。

そして、縄文人は気候環境の変化にあわせて、獲物の種類や捕るための道具を変えるなど、うまく適応していたことが、出土した動物の骨や道具類の時期的な変化からわかっています。

このように縄文遺跡群は、かつて日本列島「定住型の狩猟採集社会」という世界的にも珍しい社会が存在したこと、そして現代の日本文化にも息づいている「自然と共生した文化」が存在したことを示す点に大きな価値があるのです。

同じ時代に、世界各地では農耕や牧畜を行い定住するようになりますが、農耕をせずに採集・漁撈・狩猟を生活の基盤としながら定住を維持したSDGs社会の先駆けともいえます。

また、縄文時代の集落では、周りに壁や柵を立てたり、溝を掘ったりして外から侵入されないようにするといったことがなく、とても開放的です。

外国の都市が城壁で囲まれていたり、弥生時代の集落に環壕があったりするのとは対照的です。

「戦争」を含む大規模な争いがあったりすることを示す遺跡も遺物も見つかっていません。

また、交通・交易システムがかなり発達していて、遠隔地方や他文化とも密接に交流をもっていました。

縄文時代の社会は、他者を受け入れる多様性実践型の社会だったともいえます。

伊達市黄金地区

むかしは、黄金蘂(おこんしべ)と呼ばれていた所ですが、これは、アイヌ語の「オ・コンベ・シぺ」から来たもので、『昆布の密生しているところ』という意味です。

コンブという言葉は、日本語なのかアイヌ語なのか、はっきりしていません。

アイヌの人たちも、南の方ではコンブ、北の地方では、サシといっていたようです。

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