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弁慶岬です。追分ソーランライン【寿都町】
寿都町観光貸切タクシー・ジャンボタクシー高橋の『弁慶岬』です。
【追分ソーランライン】
寿都町に有る、追分ソーランライン弁慶岬です。
追分ソーランライン寿都町弁慶岬付近は海岸段丘や、波打ちぎわに、ベンチと呼ばれる、波の浸食を受けた、平たい岩礁が多くあります。
そして、そのベンチには、波で削れた細かい溝が走っています。
そのため、アイヌの人達は「裂けたところ」と言う意味のアイヌ語で「ペルケ・イ」と呼んでいました。
それがなまって「ベンケイ」になったものです。
二ツ森弁慶の別れ、ところで「ベンケイ」と言いますと、北海道のあちこちに、義経と弁慶にまつわる伝説が残されていますが、ここ弁慶岬にもやはり次のような言い伝えが残っています。
文治5年(1189年)といいますから、今から800年ほど前、衣川の戦いに敗れた義経と、その家来の弁慶達は、実は秘かに蝦夷地に渡り、ここ寿都でしばらくの間、アイヌの人達と暮らしていました。
しかし、いつまでも留まっているわけにはいきません。
やがて別れの時がやってきました。
そこで弁慶は、二ツ森と呼ばれる小高い丘に席をつくり、秘蔵の金の銚子と、金の盃で、別れの宴を開きました。
この宴には沢山の人達が集まって別れを惜しみ、再開を誓いました。
そして、ふたたびこの地に戻った時に使おうと、金の銚子と盃を、白桔梗の花の下に埋め、「これを掘り出した者は、天罰を受けるだろう」と言い残し去って行ったと伝えられています。
(弁慶の銅像、高さ5m像3.6m台座1.4m青銅製、台座は御影石)
寿都町
寿都町の歴史は大変古く、今から1300年前、斉明天皇のころに、安倍の比羅夫が、軍船180隻を率いて寿都湾に入ったという言い伝えがあります。
ここに和人が住むようになったのは、今から約190年前の享和2年(1802年)頃からです。
それまで、松前藩では、和人の定住を禁止していましたが、この年から自由になり、それとともに、人口も増え、歌棄を中心に、寿都と磯谷の漁場は、大変な賑わいを見せるようになりました。
以来、追分節に「・・・・・せめて歌棄・磯谷まで」と唄われて、北海道でも指折りのニシンの千石場所としてさかえました。
しかし、そのニシン漁も、大正の中頃から減りはじめ、北の海から姿を消して、半世紀以上もたってしまいました。現在はニシンに変わってサケ・マス・スケソウ・イカが漁業の中心となっていますが、今でも寿都のまちには、ニシン漁全盛の昔を伝える建築物や、伝説を秘めた景勝地が多く残されています。