北海道千歳市中央2777に有る、国指定史跡キウス周堤墓群『世界文化遺産』観光案内です。

周堤墓とは?

縄文時代の終わりに近い約3200万年前、北海道では独特な集団墓が造られました。

それは地面に円い大きな穴を掘り(竪穴)タテアナ、その土で竪穴の周囲に土手を造り(周堤)、竪穴内や周堤上に1基~十数基の墓穴を設けたもので、「周堤墓」と呼ばれています。

周堤墓の大きさは一般的に10m~30m程ですが、ここキウス周堤墓では50mを超える大規模な周堤墓が群集しているのが大きな特徴です。

また、キウス周堤墓群は、現地表面からその形を見ることが出来る貴重なものとして、1979年に国指定史跡に指定され、その後2021年には『世界文化遺産』に登録されました。

驚きの大きさ!

キウス周堤墓群のうち1号周堤墓は、周堤の最大径が約83mあり、地表面から分かる縄文時代のお墓の中で最大級の大きさを誇ります。

シロナガスクジラの全長は平均すると約26mあります。

世界最大の旅客機ジャンボジェットは全長76mですから、比べてみると1号周堤墓の大きさがよくわかります。

また、内側の深さが最大なのは2号周堤墓で、竪穴床面から周堤上までが約4.7mあります。

2号周堤墓を造るには約3000㎥の土を動かしたと計算されています。

縄文時代の道具を使って土を掘って運んで積み上げた土の量を1人1日1㎥だったとすると、25人で120日かかることになります。

北海道の縄文文化

【最古の土器と定住】

北海道で最も古い土器は、道東部の大正3遺跡(帯広市)から出土したもので、放射性炭素による年代測定で約14000年前という年代値が得られています。

この土器は乳房状の突起を持つ丸底の形をしており、縄目ではなく、爪形の紋様が施されています。

この形と紋様の特徴は本州の土器に共通していることから、初期の縄文文化においては、北海道東部に至るまで本州とほぼ均一の文化要素が広がっていた可能性を示しています。

北海道ではこの段階の住居跡はまだ見つかっていませんが、列島の各地ですでに竪穴建物が出現していたことが知られています。

【集落と貝塚の形成】

ヤンガー・ドリアスの寒冷期が去った約9000年前になると、竪穴建物で構成された集落が各地で確認されるようになります。

道東部の八千代A遺跡(帯広市)や道南西部の中野B遺跡(函館市)では多くの竪穴建物跡がまとまって発掘されるなど、すでにこの時期には恒常的な定住地が形成されていたことが分かっています。

その後、6~7千年前に温暖化のピークを迎えると、海水面の上昇と内水面の拡大により漁労が一層発達し、道東部の東釧路貝塚(釧路市)、道南部の北黄金貝塚(伊達市)や入江貝塚(洞爺湖町)のような貝塚を伴う集落が増加し、さらに5500年前頃から大船遺跡(函館市)のように大型の竪穴建物が密集した大規模な集落も形成されるようになります。

貝塚とは食料とした貝殻や動物の骨などが堆積した場所で、当時の食料資源や自然環境が分かるタイムカプセルのようなものです。

墓地としての機能もあり、当時の社会や精神文化を知る貴重な情報の宝庫となっています。

キウス周堤墓群は馬追丘陵の西側すそ野部、標高15m~21mの緩斜面に造られています。

かつて台地のメ眼前は広大な湿地帯となっており、オサットー(長都沼)やマオイトー(馬追沼)が広がっていました。

現在は干拓され、湖沼や湿地はほとんど残っていません。

キウスという名前はアイヌ語の「キ・ウシ」(カヤ・群生するところ)という言葉が由来となっていると考えられます。

当時は湖沼や湿地の周辺に茅が広がっていて、その特徴を地名にしたのでしょう。

【地域文化圏の発達】

縄文文化は北海道から沖縄本島まで日本列島全体に広がっていました。

しかし、それは画一的なものではなく、いくつかの地域文化圏に分かれていたことが分かっています。

今日でも日本の各地にはそれぞれ独自の地域文化が認められますが、縄文時代においても使われる縄文土器の形や紋様が異なるなど、一定の広がりがある地域文化圏が形成されていたようです。

北海道は地理的に、北東部はサハリン島や千島列島などを通じて北方世界と接し、南西部は津軽海峡を挟んで本州と向き合っています。

このことから、古来、北海道は北と南の文化が流入し交差する舞台になっていました。

また、森林植生の相違も北海道の縄文文化の発展のあり方に影響を与えたと考えられます。

落葉広葉樹林が広がる南西部には、ほぼ同じ植生をもつ東北地方を中心に発達し、クリの栽培などを伴ういわゆる「円筒土器文化」が6000年ほど前から流入し、津軽海峡の両側に南北約500kmに及ぶ広大な文化圏を形成しました。

これは他の縄文時代の地域文化圏に比べて広域で安定したものであり、先史時代における文化圏内での価値観の交流を示す顕著な事例として注目されます。

【巨大な記念物の出現】

4000年前頃には、北海道の南西部で大規模な記念物が出現します。

道南部の鷲の木遺跡(森町)では外径37mの環状列石が見つかっており、東北地方北部と一体の文化圏であることを実証する貴重な記念物として知られています。

一方道央部では3500年ほど前に巨大な周提をもつ集団墓地郡が出現します。

周提は円形の埋葬用の穴を掘った土を周囲に盛り上げたもので、キウス周提墓群(千歳市)では、最大で外径が83mに及ぶものがあります。

こうした形態の集団墓地は石狩低地帯を越えて道東部(斜里朱円周提墓群)まで広がりを見せますが、本州には見られないもので北海道特有の記念物です。

【縄文以降の北海道】

気候変動や大規模な災害などの環境変化にも巧みに適応し、1万年以上も存続してきた縄文文化でしたが、約2400年前に突然その終焉を迎えます。

要因は、朝鮮半島や中国長江下流域から九州北部に水稲耕作が伝わり、これを中核的な生業として鉄器や各種穀物の栽培を伴う弥生文化が急速に日本列島の大部分に広がったことにあります。

これ以降、縄文時代から数千年に渡って維持されてきた北海道南西部と東北地方北部の地域文化圏は解消し、北海道側のみ「続縄文文化」として知られる、縄文文化の伝統を強く残した狩猟採集民の文化が栄えました。

また、本州の古墳時代の中頃にあたる5~7世紀には、サハリンから海獣猟や漁労に特化した「オホーツク文化」が北海道北部から東部の海岸沿いを中心に広がりますが、南は奥尻島でも集落跡が見つかっています。

さらに、本州以南に中央集権的な政府が成立した7世紀頃になると、アワ・ヒエなどの雑穀農耕を取り入れた「擦文文化」が成立し、その後「アイヌ文化」が出現することになります。

道内の北東部を中心にこうした縄文文化以降の竪穴建物群が窪みのまま残っている遺跡が多く知られており、北海道特有の歴史を今に伝える重要な文化遺産として保存されています。

このように、北海道には日本のメイン・ストリームとは別の歴史が流れているのです。

キウス周堤墓群案内所

4月末~11月末まで開設。

冬期閉鎖

開所時間 9時~17時

案内所で無料ガイドを申し込むことができます。

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