旭川市江丹別嵐山に有る、旭川市内を一望出来る『嵐山展望台』へ行って来ました。

嵐山展望台

旭川営林局所管の国有林地区を昭和32年に無償貸与したことから嵐山公園の歴史は始まります。

水源涵養林、風致保安林の指定地区であることから、樹林保存と市の外周に緑を残したレクリエーションの場として整備をし、昭和40年1月風致公園として開園いたしました。

旭川市の中心部から西方に約5kmの地点にあり、標高は253mです。

京都の嵐山に似ていることからこの名前が名付けられたそうです。

嵐山の最大の魅力はその自然の豊かさにあります。

公園内の『北邦野草園』は、北海道第二の都市近郊にありながらも原始の森が残る貴重な場所です。

全国から多くの来訪者を迎えております。

その一方で公園としての整備も進んでおりまして、ハイキングコースや嵐山公園センターの設置により、老若男女問わずに簡単に散策ができるように配慮されています。

頂上にある展望台からは、旭川市を一望する事ができ、旭川市の夜景や花火見物のスポットとしても多くの人に知られております。

また、園内のアイヌ文化の森・伝承のコタンでは、アイヌ文化をながく保存し伝承していくための場として、アイヌ文化に関わる楽器・猟具・生活具等の展示の場としてかつてのコタンを再現し、社会教育施設として開園しております。(アイヌ語でコタンとは集落を意味する言葉です。)

嵐山展望台

駐車場あります。

旭川空港から車で約50分です。

JR旭川駅から車で約25分です。

川の街・旭川市

旭川市は石狩川を始め美瑛川・忠別川・牛朱別川など129の川が集まり、川の街と言われております。

そのため橋の数は、大小あわせて約700あまりもあるそうです。

なかには、60年を迎えた名橋、旭橋や、ツインハープ橋などがあり、ライトアップされて美しく、ノスタルジックな夜景を演出しています。

旭川の銘酒

ここ旭川は、上川の米どころとして知られ、また、大雪山から流れ出る清らかな石狩川の水を利用して酒造りが盛んで『北海道の灘』といわれております。

明治24年に酒造業が始まり大正3年には15社もありましたが、現在では北海道を代表する3社が吟醸酒を中心にそれぞれのこだわりの名酒をつくっており、国内外のファンが大変多いです。

(男山酒造・高砂酒造・合同清酒)の会社工場がございます。

平和通り、買い物公園

平和通りは以前の、「師団通り」と呼ばれていましたが、その後『平和通り』と呼び名をかえ、彫刻が点在する、たのしいショッピングゾーンとして、歩行者優先の買物公園になっております。

一日だけの歩行者天国はあちらこちらにありますが、一年中車をしめだした通りとして、全国初の試みで有名となりました。

旭川市永山

永山という町の名前は、屯田兵の育ての親であり、2代目、北海道長官でもあった、永山武四郎の名にちなんでつけられたもので、明治24年、屯田兵の入植によってひらかれた純農村地帯です。

石狩川の流れに沿って開け、今では豊かな大地となっております。

(昭和36年に旭川市に合併しています。)

永山武四郎

旭川市永山は、明治24年に、また、となり町の当麻町は、明治26年に、それぞれ400戸の屯田兵が入植したところです。

屯田兵の育ての親、永山武四郎は薩摩(今の鹿児島県の一部)の出身で、明治維新のときに、官軍が会津若松を攻めたとき、これに従って名声をあげました。

永山武四郎は、はやくから、北海道の守りを強くしなければならないと主張していました。

それは明治のはじめ、ロシアの南下が日ましに強まり、南樺太も奪われそうな状況にあったからです。しかしそのころ、北海道には、函館にわずかな守備兵がいるだけでした。

武四郎は、北の守りと開拓は、自分の使命であると信じ、政府も、武四郎の熱意を知って、明治5年北海道開拓史八等出仕として、札幌に赴任させました。

当時の開拓使長官、黒田清隆もまた同じ意見で、屯田兵制度をつくることを政府に進言して、明治7年(1874年)ついに実施されることになりました。

その彼が、明治10年、たいへんな苦境においこまれました。

それは、故郷の大先輩で、もっとも尊敬していた西郷隆盛が西南の役をおこし、これを討てとの命令が武四郎にも下ったからです。

武四郎は涙をふりはらい、できてまもない屯田兵をつれ、九州にわたりました。

そして、おおいに奮戦して、百姓部隊とバカにされていた屯田兵の名を、一躍全国にとどろかせたのです。

その後、屯田兵の仕事も、警備よりも開拓に向けるべきと考え、今まで、武士にかぎっていた屯田兵を、一般からも募集することにしました。

この平民屯田のはじめが明治24年、旭川市永山に入った永山屯田です。

以前から旭川を、北海防衛の一大拠点にしようと考えていた彼は、無人の原野に400戸の家を建てました。

人が住むようになると、職人や労務者、商人もはいりこみ、しだいに町ができて行きました。

今、武四郎の名をとって呼ばれる永山は、上川稲作地帯の中心になっております。

武四郎は屯田司令官、そして、第二代北海道庁長官をつとめたのち、旭川にあった第七師団長を最後に退職しておりますが、30年間に37の兵村を育てております。

戸数にして7300戸、4万人あまりの人々が耐え忍んで、北海道開拓のいしずえとなったのです。

明治37年、療養先の東京で亡くなりましたが、『自分は常日ごろ、屯田兵たちに【お前たちは北海道の土になれ、わしも北海道の土になる】とといっていた。だからどうしても北海道で死ぬ。』といっていた故人の意志によって、遺骨は札幌に葬られております。

旭川の四季

旭川といえば、冬の寒さで有名なところで、古いお話になりますが、明治35年には、マイナス41度まで下がった事も有ります。

最近はこのように厳しい寒さは有りませんが、それでも1月から2月にかけてはマイナス10度以下の日が続いたり、時にはマイナス20度以下に下がる事も有りますから、本当に寒さの厳しいところです。

天気予報などで、よく真冬日という言葉が使われますが、此れは1日中、気温が0度未満の日のことをいい、旭川では、平均して年間80日以上にもなります。まさしく冷凍庫の中の数カ月です。空気はピンと張りつめ、吐く息は白く、樹々の枝には真白な氷の花が咲きます。

こんな朝は「今朝はずいぶんシバレルね」という挨拶が交わされますが、寒いとか冷たいとか言う言葉では間に合わず、シバレルでなければ実感がともなわないのです。

でも、この寒さの冬を、スキー・スケート、そして冬祭りなど、人々は大いに楽しんでいます。雪は4月迄残りますが、もう、その頃にはコブシの花が咲き、5月には桜もその美しさを競い、近郊の公園は花見の人々で賑わいます。

しかし、北国の春はあっという間に過ぎ、ビールの一番美味しい夏がやってまいります。7・8月の気温は30度を超える事も有りますので、涼しさを求めて来られた本州のお客様はびっくりします。

やがて夏も終わりを告げ、空も青く澄み渡る9月、近郊の田んぼでは稲穂が段々頭をたれ、秋を感じます。そして10月、、街路樹のナナカマドの色づきも鮮やかになったころ、大雪の山々は早くも雪のヴェールにつつまれ、人々は冬の支度に忙しくなります。そしていよいよ冬将軍の到来です。

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