北海道旭川~美瑛~富良野観光貸切個人タクシー高橋の『ファーム富田』観光案内です。

ラベンダーはなぜこうも人を引き付けるのでしょうか。

それぞれ、この花との出会いには思い出をお持ちのことでしょう。

通りすがりの道端で、人様のお庭で、雑誌のページをめくったときに、カレンダーをめくった時に、人から贈られたラベンダーの花束で始めて知った香りの印象など、人それぞれにこの花との出会いは強烈な印象があるものです。

中富良野町の「ファーム富田」のオーナー富田さんも21歳の時、始めて出会ったラベンダーの花に魅了されて、40数年後の今日もラベンダーを「永遠の友」とおっしゃっておられました。

この花が出すフェロモンが、誰にでも好かれる香りなのかも知れません。

ラベンダーの花言葉は「疑惑」で、ちょっと近づきがたい感じもしますが、数あるハーブの中で、この花は「ハーブの女王」と言われていて、他の花にはない気品が備わっているようです。

生花が有ればハンドルズを楽しみ、手軽に楽しむには、ドライフラワーで楽しみ、乾燥した花を砕いてポプリにしたり、ガーゼに包んでお風呂に浮かべ、香りを楽しみ、疲れを癒し、気分を落ち着かせる効果は抜群です。

収穫するのは開花直前、つぼみが色づいたころが最適で、香りも高く、ドライフラワーにしても、長く花の色彩が楽しめるようです。

日光を好み、乾燥気味なのが好きなので、水やりは土の表面が2日~3日待つようにすると良いそうです。

ラベンダーを植える時は、密集させない事がコツだそうで、一本の苗でもすぐ沢山枝分かれして、こんもりとしてきます。

ラベンダーはスイスが原産で、栽培は南フランスのプロバンス地方で盛んに植えられております。

ラベンダーはハッカと同じシソ科の多年草植物で、小灌木で高さ60cm程に成長します。

学名は①「ラヴァンデュラ」(昭和53年7月の北海道新聞)、②「ラフィンドゥラ・アングスティフォリラ」(伊藤真希子さんの北海道新聞記事)と2つの説があるようです。

ラベンダーという名前は「洗う」という意味のラテン語のようです。

独特な爽やかな香りは古くから知られ、ヨーロッパでは香料として愛用され、ギリシャ・ローマ時代には大浴場のお湯の香りづけに使われていたようです。

今で言う入浴剤であり、鎮静作用がある事も知られており、アロマテラピーの先駆けであったようです。

16世紀ごろから香料の原料として使われ始め、イギリスではエリザベス一世の時代に、王室で人気があったとも伝えられています。

ヨーロッパでは男性がアフターシェーブローション、ヘアートニック、オーデコロンとそれぞれの思いで使っているが、ほとんど全てラベンダーの香り、欧米の紳士たちがいかにラベンダーの香りが好きなのかを物語っています。

ラベンダーの香りは実のところ女性が非常に好む香りで、殺菌、抗菌、そして鎮静作用が「あるわけですから、それゆえ、男性は女性を意識して大いに使っていると思われます。

日本におけるラベンダーの歴史

1973年(昭和12年)、東京でジャスミンなどの香料を手掛けていた曽田政治さんが、主にフランスで作られた需要の多いラベンダーに注目し、日本での栽培を始めたのです。

種子はフランスから取り寄せたまではよかったのですが、なにせ初めて育てる植物ですからどうあつかったらよいのか、解りません。

そこで北海道大学、曽田香料の札幌農場、千葉、岡山、長野、北海道の各農業試験場で試験栽培をするという慎重さでした。

その結果、比較的涼しく雨の少ない北海道が最適である事から本格的に栽培する事となりました。

(南フランスは真冬でもマイナス3℃位までしか下がりませんので、日本の適地は関東以南かと思われていたところ、意外な結果で、中でも北海道大学が一番良い結果が出たといいます。)

そこで札幌が最適と、曽田さんは昭和15年、札幌南の沢の農場16.4haでラベンダーの栽培を始めました。

昭和16年には岩内郡発足村で46haの広大な土地で作付け、昭和17年に日本で初めてのラベンダーオイルの抽出に成功したという歴史を残しています。

戦中、戦後は食料増産によってほとんど転作しましたが、種子、品種保存の関係から、曽田さんの農場だけは、こっそり栽培を続けていました。

戦後、世の中が落ち着きを取り戻したことから、昭和23年、札幌南の沢の農場では再びらベンダー作りが始まったのです。

昭和22年、たまたま農業雑誌でラベンダーの記事を読んだ上富良野の上田美一さんは、ラベンダーに興味を持ち、これからの北海道の農業は時代の先端を行かなければと、札幌の香料会社からラベンダー6000株を入手して植えたところ、失敗しています。

しかし、上田美一さんはこれにもめげず、翌年の昭和23年、今度は8000株を植えたところ見事成功し、その後、曽田香料株式会社の委託栽培をするようになりました。

それが切っ掛けととなって富良野地方や後志地方にも、栽培地が広がっていったのです。

ラベンダーは痩せ地に強く何度も畑起こしをする必要がありません。

斜面に植えると土の流出止めにもなり、山間部向きの植物という事もあって、順調に栽培面積は増えていきました。

農業は食料を生産するものだと考えられていた時代に、上田さんの感性が富良野地区の農業を変えたのです。

昭和28年、富田忠雄さんが21歳の夏のこと、仲間と一緒に農業視察の途中、紫色に染まった大地が目に飛び込んできました。

それが富田さんとラベンダーの初めての出会いでした。

爽やかな香りと、風に揺れるラベンダー畑はまるで青い海そのものでした。

「満開のラベンダーが紫のパステルカラーの世界を作り出していたのです。この世の情景とは思えず、一瞬、自分の目を疑いました。大海原の傍らにただ呆然と立ち尽くし、めまいで倒れそうになるのを、やっとの思いでこらえていました。」と、富田さんの書「私のラベンダー物語」に、ラベンダーと始めて出会った時の感想をこう述べています。

これが富田さんとラベンダーの関わり合いが始まった瞬間でもあったのです。

富田さんならずとも、誰でもラベンダー畑を初めて見た時、一瞬言葉にならない感動を覚えるものがあります。

余りにも幻想的な花の色と香り、一斉に咲いたときの風景は孔雀が羽根を広げたように鮮やかで、この世のものとは思われない「紺世の美人」に出会った衝撃にも、似ているかも知れません。

そんな富田さんがラベンダーの師と仰いだ人が上田美一さんでした。

当時49歳の(明治37年生まれ)の上田さんと、21歳(昭和7年生まれ)の富田さんの出会いでもありました。

上富良野町の上田さんの畑を何度も訪ねては、ラベンダーとの出会いを重ねていました。

やがてしびれをきらして、上田さんにラベンダーを栽培出来ないものか相談を持ち掛けました。

その頃は上富良野、中富良野、富良野の農家の中にはすでに、ラベンダーの栽培を始めていた農家が何軒もあり、熱心にラベンダーを観察する富田青年にこのことを告げて、栽培を進めるのでした。

父親を説得するのに時間が掛かりましたが、昭和33年、ラベンダーとの出会いから7年が経過して、ようやく栽培にこぎつける事が出来ました。

時は流れ、ピーク時の昭和45には全道で235haもの、作付面積に及んでいたそうです。

(中富良野町は耕作組合が6つ、耕作する農家の数も250戸、富田さんはこの時、1.2ha栽培していました。)

しかし、日本が高度成長時代、国内農産物価格が上がるのに対して、貿易自由化の波はこの富良野地区をおびやかすこととなりました。

すなわち、ラベンダーの香りに似た「ラバンディン油」が大量に輸入されたからです。

以後、富良野のラベンダーの作付面積は減る一方ですた。

憧れのラベンダー作りを手掛けて15年程たった昭和48年、ラベンダーオイルの買い上げがストップ、乾燥した花、お線香の原料などとして出荷する程度で、世情の急変は農家を直撃し、納屋の中には2年~3年分のストックされたラベンダーが置かれ、昭和51年には不要という宣告でした。

そんな時代の流れに翻弄されながらも、幾度、トラクターで踏みつぶし、お金になる作物に植え替えようとラベンダー畑を見ながら迷ったそうです。

しかし、とうとうトラクターのアクセルが踏めなかった。

それによって現在のファーム富田があるのです。

さて隣町に住む上田美一さんはと申しますと、上富良野のラベンダー耕作組合の組合長を続けていました。

機械化されて農業技術も進んで行く中、農家では割りの良い作物に転作し、昭和53年には全道で200ha以上の作付面積が37haとなっていました。

その中で一番多かったのが上富良野の26haだったそうです。

100戸を超えていた栽培農家も38戸に減っていました。

確実に栽培農家が減少していく中にも、上田さんのラベンダーづくりは続いておりました。

切り花を東京に送ったところ、花が落ちてしまうという失策もあったようですが、30年に亘るラベンダーへの情熱は、決して衰える事はなかったのです。

昭和56年、上田さんはすでに77歳の高齢にも関わらず、厳しい市場の現況を奪回しよう試行錯誤、ラベンダーの復興策をいろいろ考え、ドライフラワーにして出荷する事が多い時代に入っていました。

上田さんは「ラベンダーおじさん・偏屈じいさん」と云われながえら、ラベンダーの品種改良に力を注ぐ毎日でした。

上富良野に上田美一あり、中富良野に富田忠雄ありと、両者は師弟の間ながら、二つの町の将来担ってラベンダーに託した思いは、観光に結び付き、今日の「ラベンダー王国・富良野」を築きあげました。

その事を忘れてはならないと思います。

ラベンダーはどうして有名になったのか?

どうしてラベンダーは此れほどまでに有名になったのでしょうか。

それは昭和50年~51年、2度にわたって国鉄のカレンダーに、ラベンダー畑が掲載されたこでした。

そのカレンダーに載ったラベンダー畑は、まぎれもなく「ファーム富田」だったのです。

なだらかな斜面を覆う紫色のジュータン、匂うばかりの美しさに魅せられてか、以来、ファーム富田のラベンダー畑を一目見ようと、訪れる人は次第に増えていきました。

しかし、皮肉なもので、農業として成り立たなくなった頃から、ラベンダーの花畑は人気が出始めたのです。

当の富田さんも「今年でこのラベンダーも最後かも知れません。いい写真を沢山とって下さい。」などとカメラマンや旅行者の方々にふと、もらしていたくらいでした。

「ラベンダー畑をつぶさないで作り続けてほしい」とか、「なぜ止めるのですか」とか、質問攻めにあったこともあるそうです。

しかし、この頃は香料をとる目的で栽培していたラベンダー作りは、限界にきていたのです。

そんな中にも、毎年、カレンダーや雑誌にラベンダーは掲載され、花の時期になりますと年毎に訪れる人の数は確実に多くなってきました。

富田さんは心からラベンダーを愛する気持ちから、その後も苦しいながらもラベンダー農家として栽培を続けていました。

その内、観光客は増える、珍しさも手伝って仕事中に質問されるので、農作業に支障が出るようになったのです。

ラベンダーは刈り取る時期を外すことは出来ません。

かといって花を見に訪れた人に邪険に出来ない辛さもあります。

そこで一計を案じました。

それが次の内容を書いた掲示板だったのです。

「このラベンダーは人に見ていただこうと思って作っていたのではないのです。私たち家族の希望だったのです。ここ数年、世の中は変わってラベンダーはもう要らなくなりましたが、どうしてもつぶしてしまうようなことは出来ませんでした。苦しいなかにも、この花の紫と爽やかな香りは私たちに幸せを感じさせてくれました。北海道の冬はマイナス30度になります。そんな厳しい風雪に耐えてきたラベンダーで素。どうかあたたかい気持ちで見てやってください」と、書いて畑の一角に立てたのです。

その後も様々な方が相も変わらず富田さんの畑を訪ねては写真を撮り、花に見入って感動を胸に秘めながら大勢の人たちが帰っていきました。

そんな中に原産地の南フランスでラベンダーを見たことのある人が、「畑をつぶさないで、頑張って下さい!」と励ましてくれ、ポプリやサシェ(匂い袋)の作り方教えてくれたりと、富田さんのラベンダー作りに声援を送ってくれる人が増えていったのです。

サシェ・・・匂い袋など、花弁を詰めて作った袋ものをいう。

元気だった母親の協力を得てポプリやサシェを作ってもらい、それが訪ねて来る方が記念にと買っていく、又作る。

農家の庭がいつの間にか土産店に変わったという、思いがけない展開を始めていました。

農閑期には家族で楽しみながらポプリを作り、サシェを作ったそうです。

こうして現在のファーム富田の基礎が作り上げられていきました。

富田さんはこのファームを訪ねて来る人々を観光客とは言いません。

富田さんと同じ様に花が大好きで、わざわざ遠方からラベンダーに逢いに来て下さる方たちを「花人」と呼んでいます。

上昇気流にある時はいいこと続きで、富良野在住の脚本家・倉本聰さん作のドラマ「北の国から」の撮影に使われるとういう朗報が舞い込み、昭和55年にロケされ、翌年から全国に放映され、テレビの画像に映し出された紫のジュータンは、視聴者に強烈な印象を与えたようです。

放送後の問合せが各機関に寄せられ、ラベンダーの花咲く時期に合わせて、以来、今日に至るまで道内道外の花人たち(観光客)が、まるで草木がなびくように富良野地方を訪れるようになりました。

花人街道237号の沿線のラベンダー畑を、今日も大勢の花人が花にチョウやミツバチの様に花畑から花畑へ、飛び交っている事と思います。

 

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