『ニセコ積丹小樽海岸国定公園』歴史的建造物と小樽運河や鰊漁で栄えた日本海の絶景と港町小樽の海の幸を堪能。 フリーコースモデルプラン (貸切り時間内は自由に観光コース選択)

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小樽運河

埋め立て式運河

運河というと、一般的には陸地を掘った水路と考えますが、小樽運河は掘り込み式ではありません。

海岸から一定距離の海面を残し、その先を埋め立てるという物です。

その結果できた水路で、埋め立て式運河と称されました。

明治になって小樽の海岸は堺、港、色内、南浜と次々埋め立てられ行きました。

その先の海面埋め立ては明治32年(1899年)以来、事業主体や計画などをめぐっていろいろともめ、道庁から最終時に許可されたのは明治41年でした。

この時の計画は、埠頭岸壁方式でした。

さて、いざ着工の段階になりましたが、今度は起債が思うようにつきません。

スタートを一年延期しているうち、明治42年7月、欧米の港湾視察から帰国した広井勇工学博士が「小樽の場合、貨物の種類、荷造りなどからみて、埠頭岸壁式より、ハシケを利用する運河方式の方が良い」との意見を発表します。

広井勇氏はこれより一年前、小樽港北防波堤を築造、完成させ、東大教授という権威者でした。

港湾の神様の意見により、新しい埋め立て計画は埠頭岸壁式から埋め立て式運河へ、大きく転換することになりました。

小樽運河完成

小樽港の埋め立て事業は、東大教授広井勇博士の意見により明治42年(1909年)、埋め立て運河方式に設計変更されました。

その後、速成派、延期派、さらに埋め立て埠頭岸壁派と依然、意見が分かれてすったもんだの騒ぎのすえ、やっと着工にこぎつけたのは大正3年(1914年)8月のことでした。

埋め立て工事は北の手宮側から4区に分けて行われ、埋め立てが終わったところから逐次これを利用しました。

大正7年8月1日から9月19日まで、2区埋め立て地(現在の北海製罐の場所)で「開道50周年記念博覧会」が開催されました。

小樽というところは埋め立て地ができるとそこで博覧会をやる傾向があり、この博覧会はその第一号といううことになりました。

大正7年12月、第3区に関税支署が建てられました。

当時の写真を見ますと、関税庁舎のすぐわきは埋め立て工事中で、埋め立てるとすぐ併用をはじめたことがわかります。

大正12年12月、4区までの全工事が完了し、幅40メートル、長さ1314mの小樽運河が出現しました。

総工費は190万6096円で、第一次世界大戦によるインフレ景気で、当初予算の2倍近い額となりました。

ちなみに、当時の盛り蕎麦の値段は10銭で、これもかなりの値上げでした。

北海製罐(株)小樽工場

北海製罐(株)小樽工場は、以前この工場を使って映画の撮影などが行われたこともありましたが、かつて、作家・小林多喜二が書いた『工場細胞』という小説の舞台となった、小樽では古い歴史のある工場の一つです。

大正10年、小樽運河を造成していた埋め立て地に缶詰用の缶を作る工場が建設されました。

設立当時は東洋一の大きな建築物等と言われ、有名になったそうです。

ここで作られた缶は北洋に出漁する船に積み込み、現場で取った鮭やカニの缶詰を製造するのに使われたのです。

その他、旧ソ連にも輸出したり、ミルク・農産物の缶詰用の缶等も製造しておりました。

工場の機械はアメリカ製で、当時としては珍しくオートメーション化された設備で、余り人手を要しない新鋭の工場だったようです。

現在も勿論操業しております。

よく運河の辺りでキャンパスに向かう人々の姿を見かけますが、古くから日曜画家たちの絵の題材になる建物でもあります。

ハシケの荷役

明治、大正時代にかかけ、小樽港の貨物の荷役はハシケによって行われておりました。

ハシケ荷役に従事した港湾労働者は、沖仲仕、陸仲仕(陸方ともいう)、ハシケ人夫、倉仲仕などに分けられました。

沖中氏は、停泊した本船から貨物をハシケに下ろしたり、逆にハシケから本船に積み込む作業です。

10人から15人のグループで行いましたが、ウインチでつり上げた貨物が落下したりして、危険が伴う仕事だけに「口も荒いが気も荒い」気風で、港湾労働者の花形でした。

貨物を積んだハシケは引き船に引っ張られ、運河に入ります。

ハシケと岸との間に歩み板が渡され、ハシケ人夫が担がせてくれた荷物を陸仲仕がいる倉庫に運び入れます。

倉庫からハシケに荷物を運ぶ時も、倉仲仕に担がせてもらいます。

荷物を運ぶだけの単純な仕事とはいえ、力がなければ勤まりません。

米2表(1俵60kg)ぐらい軽々と担げないようなら、一人前の扱いをされなかったようです。

これらの労務者は「定夫」と呼ばれる業者の常雇いと、朝早く波止場近くに集まって臨時に仕事をもらう者とがいました。

臨時雇用者は沖仲仕とハシケ人夫を「ゴモ」、陸仲仕、倉仲仕を「割り込み」といいました。

戦後の衰退

戦後の港小樽の黄金期は、大正末期から昭和初めにかけてのころで、入港船のピークは大正13年(1924年)の6248隻でした。

当然、ハシケ荷役もこの年、ピークに達し、運送ハシケ数は383隻と最も多かったのです。

しかし戦後、ハシケとその基地・小樽運河は、急速に衰退の道をたどります。

埋め立て式埠頭岸壁の整備により、ハシケによる沖荷役から接岸荷役へとかわってしまったのです。

小樽運河がハシケで埋まり、陸仲仕が行き交った賑わいは、昔の夢となってしまいました。

昭和32年にはハシケ数が100隻を割って98隻に落ち込み、ハシケ荷役も小樽港の荷役全体のわずか12%になりました。

昭和40年代になると中央埠頭が完成し、荷役の機械化も進んで、ハシケの出る幕は完全になくなってしまいました。

もともと、運河はハシケ荷役のために造成されたもで、この荷役方式がなくなれば、港湾施設としてみる限り、小樽運河の使命は終わったといえます。

明治32年(1899年)に埋め立てを願い出て以来、大正3年(1914年)の着工まで、その建設について15年間の論争が行われました。

新しい運河論争

埋め立てか保存か?。

海を埋め立てる方式で造成された小樽運河は、今度はその水面を埋め立てるかどうかで議論がふっとうします。

10数年間に及ぶ小樽運河論争は、理想の都市像そのものを問う問題として、全国的に注目を集めました。

埋め立て問題の発端は、小樽市が昭和41年に決定した全面埋め立ての都市計画を決定。

都市交通の将来に対処して6車線の自動車道(道道小樽臨港線)を建設することにし、そのルートの一部に当たる運河部分680mを埋め立てようと言う内容です。

論争に火がついたのは、これより7年後の昭和48年でした。

札樽自動車道出口側から始まった道路建設が、小樽運河南端まで500mほどに迫り、工事のため一部の石造倉庫が取り壊されたことから始まりました。

この年11月、市民有志が小樽運河を守る会を結成、「運河と石造倉庫群はかけがえのい文化遺産。汚れた運河水面をきれいによみがえらせ、新しい都市空間を」と、猛烈な住民運動を開始したのです。

一方、道路建設に小樽の経済復興を託す経済界は昭和52年11月、小樽臨港線整備促進期成会を組織、一大攻勢をかけます。

問題は単に開発・保存の観点にとどまらず「小樽はどうあるべきか」の都市論の領域に広がって行きました。

埋め立ての行方

昭和54年は、運河問題が大きな転換を迎えた年でした。

小樽市は6月、飯田勝幸北大助教授の提言をもとに、全面埋め立てから一部埋め立ての「折衷案」を公表しました。

昭和54年11月、市議会が臨港線促進期成会の陳情を採択、全面保存陳情を不採択とする議会意思をきめました。

一部埋め立てへの転換は、保存派の意向も十分に取り入れたギリギリの選択と同市は説明しました。

翌昭和55年、これに基づく都市計画一部変更が道段階で決着をみました。

しかし昭和56年、57年と、運河問題はさらに激動をたどります。

道が小樽市に提出した公有水面(運河)埋め立て願書に記載ミスがみつかり、書類の作り直し、再出願の事態に、市議会も大モメを繰り返し、埋め立て着工の最終手続きとなる免許交付が、市から道へなされたのは、昭和57年9月までずれ込みました。

昭和41年の都市計画決定から16年がたちました。

これで手続き上は一応、終止符が打たれ、昭和57年12月から埋め立て準備工事となる水底ヘドロの固化作業、昭和58年11月からは本番のクイ打ち工事が始まりました。

しかし、この間の昭和58年8月、小樽商工会議所首脳が埋め立て再検討の意向を明らかにしたことから保存派市民の運動も勢いを増し、運河問題は再び複雑な波紋を広げました。

小樽市総合博物館運河館

明治26年に建てられた倉庫(小樽倉庫)を改造したもので、いかにも小樽らしい博物館です。中には、小樽のあゆみを郷土史・船舶史・ニシン漁業史・生活史などにわけて展示しております。

また、倉庫には珍しい屋根の「シャチホコ」が、訪れた人の目をひいております。

博物館と同じ倉庫を利用した、小樽市観光物産館「運河プラザ」は、小樽ブランドのクラフト製品・水産加工品・お菓子等が並んで、小樽PRの発信基地となっております。博物館右隣のドームが乗った建物は、ガラス工芸館です。

また、運が前の臨港線沿いには、お洒落なホテル、運河の宿小樽ふる川やホテルソニア小樽、ホテルノルド小樽などが建ち並んでおります。

小樽博物館

小樽文学館、美術館と並ぶ社会教育施設に小樽市博物館があります。

幕末から昭和にかけての小樽や北海道の郷土史、自然などを興味深く紹介くれます。

開設テープの声が静かに流れる館内には、収蔵・展示資料が海洋、郷土史、植物、昆虫など7部門、約3万点を数えます。

目立つものを挙げると、今では全国でも珍しい9.5mmフィルムと映写機、小樽最初の陶芸・本多佳次郎の土場焼きなど明治初期の北海道の陶器約300点があります。

さらに、収蔵量では全道一という北海道開拓期を描いた蝦夷絵(錦絵)約300枚、道央・道南の植物をほぼ網羅した標本約5000点、天然記念物のウスバキチョウを含む北海道の蝶の大半をそろえた標本約2500点など、極めて多彩です。

また、博物館講座と銘打ち、しめ縄づくりを指導するなど社会教育に力を注いでおります。

新運河の概要

昭和61年、臨港線に沿って長さ650m、水面約20mを残し、全長1140mの運河が完成しました。

平成元年からは北部の散策路などの整備に着工し、水面部分については従来の水面幅40mを確保し、長さ470mの整備を行い平成2年に完成しました。

こうして完成した運河沿いの散策路に、全国でも数少ないガス燈を63基設置しました。

散策路には約90万個の山梨産のみかげ石をイチョウ模様に敷き詰めています。

そのほか、海運、陸運、荷役、産業をテーマに長さ12m、幅80cmのレリーフを4ヶ所に設置しております。

モニュメントは中央橋街園に「ひびき」、色内側下路の散策路に「友達」北浜橋たもとに「カモメを呼ぶ少女」が建っております。

緑地帯には小樽市指定の花ツツジが植えられ、通年観光客で賑わいを見せております。

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