積丹観光貸切送迎タクシー・ジャンボタクシー高橋の『積丹町・美国町』です。

積丹町の中心積丹町美国

積丹町「美しい国」と書いてビクニと言います。ここ積丹町美国もまた、余市町・古平町とともに、慶長年間(1596~1615年)から大正末期まで、ニシン漁で賑わったところです。

今は文字通り、「美しい国」積丹の自然を売る観光の町に変身し、近海漁業・酪農・肉牛飼育なども行われています。この積丹町美国の漁港には、育てる漁業の一環としてつくられた「水産種苗生産センター」があります。

ウニの赤ちゃんを、直径15㎜以上になるまで育て、放流する仕事をしています。

ウニの赤ちゃんのエサとして、この辺りの何処にでも生えているオオイタドリの葉を使っていますが、コンブなどの海藻よりも、成長が早いと言う事です。
積丹半島の地名、積丹半島の積丹と言う地名の由来をご紹介します。

積丹の字は、なかなか読みにくく、セキタン半島と読む方もいるようです。

積丹ペニンシュラリゾート21

第一次産業である漁業に町の命運を託し続けてきた積丹町は、時代の流れに呼応して今、新たな観光地としての歩みを始めました。それが「積丹ペニンシュラリゾート21」です。

それとともに積丹半島の海岸線に位置する町村の長い間の念願であった国道229号線が平成8年11月1日全面開通の日を迎えました。この事はペニンシュラリゾート計画に大きな希望の灯をともすきっかけにもなっております。

行き止まりUターンコースと陰口を言われ、幻の国道とも囁かれていた国道229号線でしたが、最後の工事区間が積丹町と神恵内村を結ぶ「西の河原トンネル」の堀削工事でしたが、順調に進んで全線開通の日を迎える事が出来ました。これに向けて町の観光産業を見直し、全町民挙げて「町おこし」につなげようと、様々な計画をたて実施に当たっております。

まず、日本海に面している事は、獲れたての新鮮な魚介類の提供に事欠くことは無く、また、自然豊かな積丹の山々や原野に産する山菜や、有機栽培の美味しい作物、グルメ趣向にはたまらない魅力です。これらの山海の幸を大いに売り込もうと宣伝に努めています。

積丹半島は那須火山帯に属しており、余別岳(1298m)、積丹岳(1255m)などの高山があり、最近はこれらの山に登山する人々も多い様です。

さてこれらの山々の裾野が海岸まで迫っており、所によっては断崖絶壁を為し、また、海中になだれ込んだ岩石は長い間、波の浸食を受けて様々な形の奇岩怪石となって海岸に横たわっています。その光景は人間の力など及ばぬ自然の偉大な芸術品の数々です。

神威岬・積丹岬・黄金岬・厚苫岬など変化に富んだ海岸線の景観を大いにアピールしようと、車道、駐車場、爽やかトイレなど施設の整備や、遊歩道や案内板の設置にも力を注ぎ、訪れた観光客へのサービスに努めております。

また、「ソーラン節の発祥地」をアピールしようと「ソーランディスコ」の振り付けを考案しました。かつて漁場で威勢よく歌われた鰊場音頭を実際の鰊場で再び聞くことは出来ませんが、ならばその寂しさを消そうと始まったのがソーランディスコ、「此処までやるのか!!」の勢いで、老いも若きも機会ある事にディスコを楽しもうと意気込んでおります。

此れもまた、「ペニンシュラリゾート21」の精神を大いに力を添える原動力になっているようです。

地方の町に活力を!!と町民全員が努力し、積丹町と積丹半島の復活を願っています。

これはアイヌ語の「サクコタン」(夏の村)あるいは(夏の集落)からきています。

アイヌの人達は狩猟民族で、夏は海岸や川辺・湖のほとりに集落をつくり、海や川の幸をとって食糧をたくわえました。

魚介類の豊富なこの辺りの海岸は、アイヌの人達にとって最高の場所だった訳です。

そして冬になると、クマや鹿などの多い所に移動しました。

此を「冬の村」(マタコタン)と呼びます。

この様に季節ごとに移動する生活をしていましたので、アイヌのコタンは、余り大きくなく、5~6軒から多くても20~30軒の集まりだったそうです。

積丹の漁港

積丹町には7つの漁港があります。かつてニシン漁で栄えた時代を背景に、現在もなお忙しく出船入船が昼夜をとわず行きかう様は、何時見ても活気がみなぎって力強い風景です。先祖代々受け継いで来た漁業を今も続ける漁民たちの顔は自信に溢れ、つくづく男の仕事場という感じがいたします。

ニシンに去られてもなお、ここに留まって先祖の残した足跡を消す事なく、積丹の海を守り続けている人々の姿は美しく、明るく前向きに時代を見据えて漁をしているのでしょう。

日本海の荒波が始まり、青葉の茂る5月を迎えると浜はヒラメ漁が始まります。

6月はウニ漁、7月はイカ漁の季節、このイカ漁が始まると遙か沖に点々と灯りがともり、まるで不夜城といった光景がみられるのです。イカ漁ならではの光景は秋に入っても続きますが、やはり秋と言えばサケ漁と相場は決まっていて、大掛かりな漁が展開されます。漁民の仕事はこれで終わらず、凍てつく寒い冬も「スケソウ漁」が待っています。スケソウダラ(スケトウダラ)は蒲鉾の原料であり、紅葉子・明太子の原料となる腹子はこのスケソウの子なのです。

こうして日本海の豊かな恵みを追って、今日も多くの船が浜に、海岸に、沖に出漁して、私達の食卓にいつも新鮮な海の幸を届けてくれるのです。

積丹町の歴史

行政の中心である旧美国町は昭和31年9月、近隣の入舸村と余別村が合併して積丹町を名乗る様になりました。

この町の町章を見ますと三羽のカモメで描かれており、美国・入舸・余別が一つの町に統合された事を表しております。

積丹とはアイヌ語で「シャクコタン」夏の村・集落の事です。その言葉の通り今から4千年ほど前、縄文人そして後にはアイヌ人がこの辺りの海岸線に、夏の集落を作り居住した事からこの地名が生まれた様です。

この町に和人の歴史が始まったのは今から350年前の慶長年間で松前藩の領地となり、宝永3年(1706年)には美国場所と積丹場所の両場所が設けられました。

美国場所(現在の美国)は松前藩・近藤家が、積丹場所(現在の日司)は松前藩・藤倉家が代々知行主で、漁場所はもともと、知行主に代わって場所請負人が治めていました。

中でも積丹場所請負人、岩田金蔵は安永5年(1775年)から明治まで、長期に亘って代々場所請負人を務めてきた方で、後には美国場所も治める様になりました。

明治に入って請負制度は廃止され明治35年には美国町となり、39年には余別・入舸に村制が施行されるなど、早い内から多くの人々が日本海に面した積丹の漁場に定住していた事が伺われます。特に明治から大正時代にかけてニシン漁場として栄えた所で、鰊が群来る時、海面は銀色に染まり、ニシンを追ってやって来る大勢の「ヤン衆」達で漁場は一層活気づいたともうします。

ヤン衆達がニシン漁場で作業歌としたのがあの有名な「ソーラン節」で、北海道を代表する民謡として今も歌い継がれております。「ソーラン節の発祥の地は我が町」と名乗り出ているのが、隣り町の余市町と積丹町の両町で、本家争いとまでは至っておりませんが、それぞれ、記念碑を建てて地盤固めをしているようです。

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