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小樽 冬 ゆったりプラン4時間ルート tourist観光TAXI Aコース

観光貸切TAXI プラン ルート モデルコース

小樽駅or小樽市内ホテル~高島岬~旧青山別邸~旧日本郵船~北運河~田中酒造亀甲蔵~旧日本銀行(金融資料館)~小学生の時裕次郎と慎太郎が登った木~富岡カトリック教会~地獄坂~旭展望台~船見坂~小樽駅or小樽市内ホテルor北一硝子orオルゴール堂

(有料道路利用料金 駐車場料金 施設体験見学使用料金等含まれておりません)

料金

小樽市内ゆったり4時間観光Aコース

普通車タクシーお客様4名まで乗車可能 1時間6300円×4時間=25200円

ジャンボタクシーお客様9名まで乗車可能 1時間8940円×4時間=35760円

モデルコースです。時間内コース変更可能です。

小樽市祝津地区

小樽観光を代表する小樽の景勝地で、北海道の文化財に指定される小樽市祝津ニシン御殿をはじめ、ロマンチックな小樽市祝津日和山灯台、自然の海をそのまま生かした小樽市祝津水族館、白いヨットの浮かぶ小樽市祝津マリーナなどがあります。

小樽市祝津ニシン御殿は、以前、積丹半島の泊村にあった大網元、田中家の住宅です。
白い壁と、黒い柱の美しいコントラスト、大屋根中央の「煙だし」など、まるで天主閣のようです。
また、一歩中へ入ると、一抱えもあるような、角材がふんだんに使われていて、ニシン全盛の頃のようすがしのばれます。

ニシン御殿のうしろにある、小樽市祝津日和山灯台は、映画「喜びも悲しみも幾年月」のラストシーンに登場して、全国に紹介された灯台です。
歌の一節のように、「沖行く船の、無事を祈って」立っています。

小樽市祝津の美しい海岸をそのまま生かして建てられた水族館には、2万匹あまりの魚が悠々と泳いでいます。
トドのダイビング、イルカやアザラシ・オタリアのショー、可愛いラッコなども人気を集めて、シーズンには「祝津銀座」といわれるほど、大勢の人達で賑わっております。

小樽市祝津日和山灯台、明治16年に建てられた古い灯台で、北海道では根室のノサップ灯台につぐ2番目のものです。
最初は6角形の木造で、白一色でしたが、現在は御覧のとうり、赤白の近代的な姿に生まれ変わり、15万カンデラの光が、35㎞の海を照らしております。

小樽市祝津ニシン御殿、以前、積丹半島西海岸の泊村にあったニシン場の親方、田中家の番屋で、昭和33年ここに移されました。
「番屋とは」、北海道独特の呼び名で、もともとは、松前藩時代の漁場の支配所で、運上屋の出先機関でしたが、のちに、ニシン漁を行う住居を指すようになりました。

そして、この番屋が中心になって、網倉や倉庫が幾棟も建っていたのです。
ところで、この田中家は、積丹半島屈指の大親方で、たくさんの漁場を経営し、漁獲高は、じつに1万石(7500t・4000万匹)を誇っていました。
全盛期には、120人の漁夫達が寝起きしていたそうです。
その田中家が、明治24年から、7年がかりでつくりあげたのがこの建物で、ほとんどが、北海道産のタモ、トドマツ、センなどの原木、3000石(1石は0.28㎥)を使っております。
これを、仮に15坪のマイホームを建てるとすると、40戸は出来るということです。
大屋根の中央の「煙だし」も、天主閣のような形をしていますが、中に入って、吹き抜けの天井を仰ぎますと、1尺から2尺(30cm~60cm)もある荒削りの角材が、ふんだんに使われていて、ニシン場の親方が、いかに裕福であったかが、おわかりいただけるかと思います。

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ヤン衆たち

3月末、産卵のためニシンの大群が浜へ押し寄せます。

これを群来というのですが、このニシンを待ち受けて、沖合に建網が張られます。

網1カ統について20人~30人の漁夫を要したと言われています。

明治20年代、小樽の建網は約200カ統だったので、漁夫の数も5000人を超えただろうとおもわれます。

これらの漁夫は、各漁業者雇付の船頭(青森、岩手、秋田地方の人が多かった)に伴ってやって来た人が大半で、いわゆる「ヤン衆」(雇い衆、やんちゃな者などが語源とされていますが、定説は有りません。)と呼ばれる人々です。

2月頃きて、準備作業をし、漁期が終わって後始末が済んだ6月頃、帰郷するのが普通でした。

給金は階級によって差がありますが、格の高い船頭で一漁期につき50円、平雇では20円というのが相場だったそうです。

このほか「九一」の制度があって水揚げの1割が漁夫に配分される制度もありました。

漁の多宴や魚価によるから、この分配金もバカにならないのです。

旅費、食事は雇い主持ちだから、給金や分配金はそっくり残る勘定になります。

なにしろ盛り蕎麦1杯が1銭(明治19年の小学校教諭の初任給は5円)という物価の時代だから、出稼ぎとしては結構な金額だったといえます。

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小樽市祝津に有る、小樽旧青山別邸

青山家は明治・大正を通じ、ニシン漁で巨万の富を築き上げました。
その三代目娘、政恵が十七歳の時、酒田市にある本間邸に魅せられて大正6年から6年半余りの歳月をかけ建てた別荘が小樽旧青山別邸です。

平成22年、国より登録有形文化財に指定されました。
約1500坪の敷地内に木造2階建てで建坪は190坪。家屋の中は6畳~15畳の部屋が18室、それぞれに趣が異なり、金に糸目をつけず建てられた豪邸です。

祝津には、ニシンの全盛期をしのばせる建物が、いくつか残っておりますが、青山家別邸は、その中でも代表的なものの1つです。
カワラ屋根の豪壮な建物で、外観のいたるところに木彫りがほどこされ、内部も「北の美術豪邸」と呼ばれるにふさわしい、すばらしいつくりになっております。
なお、青山家は、安政6(1859)年からの網元ですが、最盛期のころには、漁場の数10、漁船百数十、漁夫300人をかかえていたそうです。

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小樽市色内に有る、旧日本郵船小樽支店

明治39年につくられたもので、日本銀行小樽支店とともに、小樽の明治洋風建築の双璧といわれ、規模こそあまり大きくありませんが、正面は、バルコニー付の玄関を中心にして、左右対照になっていて、軒下の石の装飾も、大変素晴らしものです。
また、内部も、彫刻をめぐらせた大きな丸い柱や、(大会議室の)豪華なシャンデリア、(貴賓室の)大理石のマントルピースなど、当時の繁栄ぶりを物語っています。

なお、この建物は、完成直後の明治39年11月、日本とロシアの間で、南樺太の国境を定める会議(日露国境画定会議)が開かれ、まさに歴史の檜舞台でした。
この建物の設計者は佐立七次郎博士で、現・東京大学工学部の前身、工部大学校造家学科の1期生です。

ところでこの1期生は、佐立七次郎、辰野金吾、曽根達蔵、片山東熊のわずか4人ですが、佐立は、明治39年完成の日本郵船小樽支店、辰野は、明治45年完成の日本銀行小樽支店、曽根は、昭和2年完成の三井銀行小樽支店の設計をおこなっています。
日本建築の土台をつくったと思われる4人のうち、3人までが小樽で腕を振るったことは、興味ぶかいことです。

新小樽運河の概要

昭和61年、臨港線に沿って長さ650m、水面幅約20mを残し、全長1140mの運河が完成しました。

平成元年からは北部の散策路などの整備に着手し、水面幅部分については従来の水面幅40mを確保し、長さ470mの整備を行い平成2年に完成しました。

こうして完成した運河沿いの散策路に、全国でも少ないガス燈を63基設置しました。

散策路には約90万個の山梨産の御影石をイチョウ模様に敷き詰めています。

そのほか、海運、陸運、荷役、産業をテーマに長さ12m、幅80cmのレリーフを4ヵ所に設置しております。

モニュメントは中央橋街園に「ひびき」、色内側水路の散策路に「友達」北浜橋たもとに「カモメを呼ぶ少女」が建っております。

緑地帯には小樽市指定の花ツツジが植えられ、通年観光客で賑わいを見せております。

小樽の歴史

ここ小樽に、和人が姿を見せるようになったのは、今から320年ほど前の寛文9年(1669年)松前藩(氏家氏の知行場所)と、アイヌの人達が交易を始めてからの事です。

しかし、松前藩に雇われた商人や、ニシン漁の人達が、おおぜいやって来るようになったのは、それから100年も後のことで、しかも、当時は、和人の定住を認めていませんでしたので、秋になると、みんな引き上げてしまい、もとの静かなアイヌコタンに戻るという状態でした。

和人の定住が許されたのは安政3年(1856年)明治維新のわずか12年前です。以来、地理的条件にもめぐまれて、発展して来ました。

小樽の味、小樽は港町と言う事からでしょうか、飲食店の多い所でが、飲むにしろ、食べるにしろ、安くて美味しく😋(^_^)v、しかも人情こまやかな所と言われています。

おなじみさんが転勤ともなれば、一晩中店を閉めて送別会をしてくれるお店も有りますし、札幌からタクシーに乗って来ても、ススキノで飲むよりずっと安くあがるそうです。

小樽の味は、何と言っても海の幸です。

例えばお寿司、地元の人に言わせますと、最近は少し値上がりしたようですが、それでも、ネタの新鮮さと味の良さ、値段の安さは、函館とならんで話題になる所です。

また、ニシンやイカを、目の前で焼いていただく炉端焼きの素朴な味等、小樽は新鮮で豊富な食材を、いろいろな食べ方で楽しませてくれます。

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小樽市色内に有る、旧日本銀行小樽支店

小樽は歴史の重みを感じさせる建物が多く、ハウスウォッチングの楽しみある街並みです。
旧日本銀行小樽支店は小樽に残っている、明治洋風建築を代表するものの1つで、どっしりとした土台、ぶあつい石の壁、そしてルネッサンス・スタイルの建物は、西洋の古いお城を思わせます。
壁の凹凸や、軒下に見られる石の装飾、奥深い玄関や長い窓、それお守るように立つ柱など、どれ一つ取り上げても、素晴らしいデザインですが、とくに、ドーム付き屋根が魅力といわれております。

この建物は明治45(1912)年レンガ造りでつくられたもので、設計者は元の日本銀行本店や、赤レンガの東京駅をつくった辰野金吾氏です。

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小樽市信香町に有る、小樽田中酒造亀甲蔵

小樽旧岡崎倉庫、岡崎謙、明治10(1877)年佐渡生まれ。
東京英和学校、国民英和学校、東京高等商業学校(一橋大学)で学び、明治32(1899)年に米、荒物、雑穀、倉庫業の家業を継いでいます。
区制時代には区会議員、市政時代には市会議員、昭和2(1927)年には議長になっています。

前田家のおかかえ能楽師であった波吉宮門に能を学び能を愛していました。
自費で能舞台を自宅に普請するほど文化にも造詣が深かったようです。
能楽堂は市に寄贈され、公会堂の一角に建っています。

また、現在田中酒造亀甲蔵は明治39(1906)年に建てられた旧岡崎倉庫です。
酒と水、1升(1.8ℓ)の酒をつくるには10升の水を使うといわれるように、酒の10倍以上の水が様々な段階で必要です。「洗米」米を洗う水、「浸漬」米を適度に潤す水、「蒸米」米を蒸気で蒸す水、「仕込水」米と麹とを一緒にタンクに入れる水、「割水」度数調整のための水といったほとんど全てのプロセスで水を使用します。
小樽が自慢できる味を環境として助けてきたのは、まさに小樽の水に他なりません。
田中酒造亀甲蔵、明治32(1899)年に創業した田中酒造(株)が平成8(1996)年に設置した酒造工場と見学施設です。
10種類以上のお酒が試飲できるミュージアムです。

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小樽市富岡に有る、小樽富岡カトリック教会

昭和4年に、ドイツ人宣教師の設計・指導で建てられた、小樽カトリック富岡教会です。
ツタにおおわれた天主堂、ステンドグラスをはめ込んだ飾り窓、アーチ型に石を組んだ玄関など、ロマンチックな香りただよう教会です。

なお、このあたりは、亡き石原裕次郎さんが(3歳~8歳までの)少年時代をすごしたところです。
となりの写真は小樽公園です。

小樽公園は、小高い丘の上につくられた、緑の多い公園で、北海道でただ一つの能楽堂をはじめ、市民会館や体育館、図書館・公会堂・野球場などが点在します。
また、15種類7000本のツツジが植えられていて、花の季節は、目も覚めるばかりの美しさです。
このツツジは、小樽市の「市の花」に選ばれていますが、庭木が「市の花」になっている珍しい例です。

北海道の方言

北海道の方言の成り立ち

北海道の方言には歴史的背景から、「海岸部方言」と「内陸部方言」に大きく分けることができます。

北海道に和人が初めて渡って来たには鎌倉時代初期からで、開発が始まったのは室町時代末期からといわれています。

蝦夷地での豊富な魚介類と交易を目的に松前町付近を中心に移住してきました。

移住者は当初、おもに下北、津軽半島の漁民でしたが造船技術の進歩により大型木船が造られるようになると秋田、山形、新潟、富山、石川、福井からも来道するようになりました。

移住し家は漁場を求めて海岸線沿いに定住していきました。

このことから「海岸部方言」はおもに東北地方出身者によって形成され、北海道の方言の基盤になりました。

一方、内陸部の開発にかかったのは明治2年(1869年)、開拓使が置かれてからです。

開拓使の拓殖計画により、本州各県から移住民が大挙して来道しました。これは北海道の防備と本州の生活困窮者救済、開墾が目的でした。

海岸部は数百年の間に徐々に開拓されましたが、内陸部はわずか数十年の間に急速に開拓されました。また、移住者の多くは農民や士族であったことや出身地が全国におよんでいたこともあり、海岸部とは異なることばが使われていました。

同郷人の多い所では出身地のことばが使われていましたが、入植者が増え出身地が混じったところではことばが通じなかったため、意思の疎通ができることばを求め合い「共通語」化され、残ったことばが「内陸部方言」となりました。

出身地の方言を捨て去る言語生活の積み重ねで、内陸の方言は形成されていきました。

小樽の方言

このように海岸部方言と内陸部方言では歴史的背景に違いがあります。

海岸部方言は道南を中心に日本海側、太平洋側、オホーツク海側の海岸部で使われているほうげんです。

さらに分類すると松前郡一帯の「松前方言」と松前を除く渡島、桧山、後志地方の「道南方言」、道南以外の「道東、道北、オホーツク沿岸方言」に分けることができます。

小樽は「道南方言」に属していますが、その色彩は薄まりつつある地域といえます。

発音のおもな特徴

「し」「す」「ち」と「つ」「じ」「ず」の区別がつきにくい。

〈例〉すす(寿司、獅子)、つつ(土、父、乳)、つず(知事、地図)

「い」と「え」が混同している。

〈例〉えだ(板、枝)、えぎ(息、駅)

「へ」と「せ」が混同している。

〈例〉へなか(背中)、かせる、かへる、(食わせる)

ことばの特徴

「べ」で二つの意味を表す。

〈例〉行くべ(行こう、行くだろう)

「ない」にあたるところは「ね」になる。

〈例〉見ね(見ない)、知らね(知らない)

助詞「に」「へ」「を」が「さ」になる。

〈例〉船さ乗る(船に乗る)、店さ寄る(店に寄る)

小樽でよく耳にするおもな方言

いやいや(やいや)

あいずちに使います。「まあまあ」などあいまいな感じ。

いずい

痛痒いこと。我慢できないほどではんくぁいが痛痒い状態。

おがる

おもに植物が成長したときに使うが、こどもが成長したときにも使うことがある。

おばんでした

こんばんは。なぜか過去形です。

がおる

疲れ果てて死にそうになる。疲れるの最上級。

がさい(がっさ)

物の状態が悪いこと。ダサイに似ている。

かっぱがす

ひっくりかえす。

きかない

勝気なこと。気丈。

しゃっこい

冷たい。

ちょす

触る、いじる、ちょっかいを出す、からかう。

つっぺ

栓をする。「つっぺかう」(栓をしてふさぐ)

はかいく

はかどる、作業が進む。

まかす

撒き散らかすこと。

まぶい

美しい、かっこいい。

ゆるくない

つらい、難しい、大変。

此れを覚えて、あなたも小樽人になりましょう。!!

方言は文化遺産

北海道の方言は、特に後志以南の海岸部の方言はいわゆる「浜ことば」といわれ、田舎の人の使う「悪いことば」だと思っている人が多いのですが、これは間違った考え方です。

ことばには地理的分布があり、分布範囲の広いことばが通用範囲も広く共通語となりました。

方言は、その範囲が狭く地域に残って行きましたが、その方言は自分が作ったことばではなく、親またその親から伝承された地域の貴重な文化遺産なのです。

方言には由緒ある古語が使われていたり、標準語では表せない感情や状態、深みを表現できる魅力あることばです。

方言の語源を探ると、もっと街の魅力を発見することができるかもしれません。

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