【猿払村】猿払村インディギルカ号遭難者慰霊碑観光案内です。


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猿払村に有る、猿払村インディギルカ号の遭難者慰霊碑です。猿払村浜鬼志別の海岸沖合1㎞ほどのところに、小さな岩礁があります。毎年2月~3月に掛けて、トドの群が集まることから地元の人達はトド島と呼んでいます。さてお話は昭和14年12月12日午前1時頃、ソ連船インディギルカ号(2690t)が、このトド島で座礁してしまいました。インディギルカ号はカムチャッカの漁場を切り上げ、漁夫とその家族、船員ら1132名を乗せてウラジオストックに向けて航行中、折からの暴風雪に逢い、進路を誤ったようでした。船は座礁と同時に船尾から浸水が始まり、やがて船体は逆立ちとなり、まもなく横倒しになりました。そのとき、甲板や上部船室にいた人達は一瞬のうちに暗い海へほうり出されていました。インディギルカ号は座礁するや直ちに救助を求めるためボートをおろし、途中何度も転覆しながら、10名の乗組員のうち5名がかろうじて浜にたどりつき、ずぶ濡れとなって近くの民家に助けを求めたのです。しかし、残念ながら言葉が通じませんので、彼らは泣くような哀願するような声で、なおも、手真似で沖の方をさします。吹雪を通して沖合に目を向けると、かすかな灯りが見えました。横転したインディギルカ号の船腹で火を焚いて合図しているのです。この時、初めてトド島付近で難破していることが解りました。駐在所のおまわりさんもかけつけ、稚内の本署に連絡、浜では村人が総出で火を焚き始めました。真っ赤な炎を立ち昇らせ「助けに行くから心配するな」と励ましたのです。しかし、夜明けとともに鬼志別の浜は地獄の様相さながらとなりました。横倒しになった船の上には生存者が立ち並び、手をふり、救いを求めて絶叫しています。そこえ激しい波が襲いかかり1人、また1人と泣き叫びながら荒波の中へのみこまれて行きます。一方海岸には溺死者が漂着し始めました。いたるところに2重3重に死体が折り重なり、中には子供をしっかり抱いた母親の姿もあります。岸からも救助の船を出して見るのですが、小さな漁船ですからたちまち転覆してしまい、全く手のほどこしようもありません。そのうちにも遺体は次々と打ち上げられました。村人達の必死の救助活動にもかかわらず、犠牲者は702名を数え、それは猿払海岸16㎞に渡って漂着しました。インディギルカ号には不運が重なっていたようです。稚内港を出た救助船も悪天候のため引き返し、現場到着が翌日になったこと。また、昭和14年、この年は旧満州国境でおこったノモンハン事件で、日ソの関係が極度に緊張していた最中の出来事だったことです。さらに、ペレストロイカが、隠されていたもう一つの悲劇を明らかにしました。それはインディギルカ号は実は囚人護送船だったということです。漁業関係者も便乗していましたが、大半はシベリアのコリマという金山で強制労働をさせられ、長い刑期をやっと終えてウラジオストックに帰る人々がたくさん乗っていたという事実でした。しかし、囚人であれ、だれであれ、430名の尊い人命を救った猿払村の人達の国境を越えたヒューマニズム(人類愛)は、世界中に大きな感動を与え、称賛の声が寄せられたことは申すまでもありません。(今、海岸に立つインディギルカ号遭難者慰霊碑は昭和46年、国内の人々の善意とソ連の海員、漁夫浄財によってつくられたもので、台座の石はシベリア産の花崗岩です。)

猿払村、北海道で一番広い村(588平方㎞)、オホーツク海に面する海岸は、高さ5~6mの砂丘が続き、その内側はモケウニ沼、ポロ沼、猿骨沼など、沢山の沼が点在する湿地帯です。猿払村に和人が定住するようになったのは、明治中頃で、サケやマス、そしてホタテの産地として注目されてからです。その後大正時代に入りますと木材も加わりました。今はもう廃止されてしまいましたが、旭川と稚内を結ぶ鉄道が、当初直線コースをとらず、大きく迂回してこの地域を通っていたのも、木材運搬のためだったといわれています。現在は、ホタテ漁と酪農が中心となっています。

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